2018年04月03日

審判はつらいよ

 遅くなりましてすみません。「明日に」と言っておきながら映画なんか見てきたものでして(^^;;;

 孔明さんから問題提起された試合中の主審と副審の協調についてですが、恒例により競技規則をめくってみると第5条の「主審」、第6条の「その他の審判」で、あるべき主審と副審の姿ががっつりと書かれております。あるいは日本サッカー協会によって補足情報として競技規則に添付されている「審判員のための実践的ガイドライン」を読んでみると、より詳細に主審と副審の仕事の役割について記されています。特に「…ガイドライン」の「副審」には…

−ファウル−
 副審の間近や主審の見えないところでファウルまたは不正行為が犯されたとき、副審は旗を上げなければならない。その他の状況では常に待たなければならず、要求された場合には見解を示さなければならない。この場合、副審は何を見たのか、聞いたのか、どの競技者がかかわったのか、主審に伝えなければならない。

と、明確に書かれております。

※余談ですが、2017/2018年版の規則ならびに「…ガイドライン」のURLはこちらです。JFAのwebサイトには近年かなり多くの規約やフォーマルな文面が掲載されております。インターネット時代になってはや四半世紀が過ぎましたが、まったく隔世の感があります。昔は競技規則すら掲載されていなかったんですから。→ http://www.jfa.jp/documents/pdf/soccer/lawsofthegame_201718.pdf

 これを踏まえて。

 ひと昔前の話になります。記憶が確かならアウェイ徳島戦の後です。ポカリスタジアムを出て徳島空港まで帰るタクシーで、その試合の副審を務めた人と同じ車に同乗してしまったのです(笑)。その日はタクシーを呼んでもかなり混んでいて、相当に待たされたのだと思います。「ご一緒にいかがでしょう?」と聞いたら「よろしいんですか?ぜひ」ということになりました。その当時は僕も三角山で喋っておりましたので、マスコミと審判のこういう形はマズくないのかな?とも思ったのですけれど、確かに「ぜひ!」と言われましたので「まぁいいか」と思っています。
 まだお若い方でした。徳島での試合は判定的にはそんなに難しい試合ではなかったと記憶しています。カードは出たかもしれませんが、少なくとも荒れた試合ではなかった気がします。その人も「きょうはやりやすい方の試合でした」と仰っておられましたし。
 車内の空気が少しほぐれたところでちょっと勇気を出して「ここのところ微妙な判定で話題になる試合も多いですね」と振ると、ざっくばらんに「そうですね。でもあまり深刻には受け止めすぎないようにしていますけれど。(この方自身もサッカーをプレーしていた経験があるため選手目線となり)いい選手って悪いプレーをしてもそれを引きずらないですよね。もちろん反省はしています。試合後すぐにですよ。試合中はすぐ次のプレーを見なければいけませんから。終われば僕も反省しますし、審判アセッサーやマッチ・コミッショナーからじゃんじゃん指摘される試合もありますし」という内容のお答えをいただきました。この当時は現在のJ1などのように、かつ2年前までのJ3のように両チームの関係者は含まず、あくまで審判側だけでの反省会は試合会場でやっていたのですよ。

 その流れで「主審と副審の関係」についての話になったのです。以降記憶をひもといて書きます、大意としてはこんな流れでした。

 審判さん「やりやすい主審と、ちょっと苦手な主審は確かにおりますね。もう一人の副審含め、あまりに歳が離れすぎますと、使わなくてもいい気まで使ってしまいますし」
 ひぐま「数年前から協会は主審と副審がもっと協調して、第4審判も含めたチームとして試合を裁くように訴えていますよね?」
 審判さん「そうですね。毎年少しづつ(副審が主審に対し)関わる項目も増えていますし」
 ひぐま「たとえばフリーキックのときに、ピッチの中にまで入ることもありますね(注/キッカーと相手選手との間の10ヤードの距離を取るため=そういえば最近は見ませんね?)」
 審判さん「ああ、それは明文化されたのは何年前だったかな?(注/2000年度)でもねぇ、あんまりそれ評判が良くないんですよ」
 ひぐま「えっ?どうしてですか?」
 審判さん「協会の審判部の中にもね、『主審の威厳を損なう』という見方があるんですよ」
 ひぐま「『威厳』ですか?」
 審判さん「サッカーの判定って、最終的には主審が責任を持たないといけないんですよ」
 ひぐま「ええ、それは存じています」
 審判さん「あんまりね、副審の領分が大きくなってしまうと、主審がやりづらいんじゃないかということなんですね」
 ひぐま「そうなんですか。じゃ、たとえば○○さん(審判さんの名前)の目の前でファールがあったとき、『ファールだよ』って旗振りますよね(主審に知らせるために)」
 審判さん「振ります。でもね、それを無視する主審もいるんですよ」
 ひぐま「無視ですか?」
 審判さん「無視と言いますか、まぁ(途中から言葉が重くなる)ノーノー(手を振る)という感じで」
 ひぐま「それはちょっとひどいですね」
 審判さん「よほど重大な反則でしたら僕だったら『いやいや、(試合を)止めてよ、ファール取ってよ!』と旗振り続けちゃいますけれどね」
 ひぐま「そうじゃない人(副審)もいるということですね」
 審判さん「そうなんですよ。結局、チームでアサインされた以上チームワークって大切になるんですよ。そこでね、さっきも言ったけれどトシが離れすぎていて、たとえば僕より年上のベテランの人が主審やってたり、トシが近くてもあまり組んだ経験のない人が主審だったり…あるいは向こう側の副審だったりすると、どっかで遠慮みたいなのが出ちゃうんですよ。もちろんそんなのなくってうまくいくケースの方が多いですよ」
 ひぐま「逆に最近は若いうちからエリート審判の教育を受けて、若くして主審になる方もおられますよね」(注・JFAの審判員養成機関「レフェリーカレッジ」のこと)
 審判さん「そういうケースも数は少ないんですが(注・この時点ではまだカレッジの卒業生は少なかった)やりやすかったり…やりにくかったりといろいろですね。つまりトシは僕より下でも、向こうはエリート主審の専門の教育を受けてきているわけでしょ。今の副審にはそんな人いませんから、逆に『オレの見方が絶対だ』みたいな雰囲気をガンガン出している人もいるんですよね。そういう人たちはね、協会の『主審はもっと威厳をもたなければならない』という教育の中で経験を積んできていますから、まぁ…やりにくいと言いますか何と言ったらいいのか…」
 ひぐま「そうなんですか。でもそこをなんとか互いにコミュニケーションを取りながら『プレーヤーズ・ファースト』で判定を降していただけませんでしょうか」
 審判さん「『プレーヤーズ・ファースト』ね、いい言葉ですね。確かにそれが一番大切なんですよね」

と、こういった内容の話でした。

 じゃ、先日の鹿島戦のあのシーン。
 中村主審は…DAZNの画像で確認する限り、昌子のハンドを判定しづらい位置にいたのかもしれません。しかし一方でメイン側の数原副審からは視界にとらえられる位置にあった可能性が高いです。

 そんな場合は…。

 被害を受けた(便宜上こう呼びます)チームの「主将」が、味方の選手を制して主審の元へ行くべきだと思います。そして「抗議」ではなく「確認を要請する」のです。「抗議」はいくら主将であっても認められておりませんから。「自分は抗議するわけではない。ただ、副審に確認をしてくれ」というわけで、それに対しては主審から無下に「下がれ!」と言われるケースも…0ではないにしろ、少なかろうと思います。なにせ「キャプテンマーク」を巻いている選手なのですから。
 逆に副審に訴え出るというのはアタマのいい手段ではありません。昨年のアウェイ浦和戦で…ええと…確か兵藤のゴールの際に相手DF槙野(主将ではないけれど)が「オフサイドじゃないか!」と副審の元へ行っていましたよね。あれはバカが使う手です。ここまで書いたように協会による「主審絶対」を知っていればまず主審を動かさなければなりません。
 今回は、札幌の主将・宮澤も確かに何がしかを主審に言っており、「確認してください」とも言ったのかもしれませんが、ちょっと遅かった気がします。審判だって人の子ですから、三好に何か言われてカッとなって「確認しなきゃ」という考えが飛んでしまったのかもしれません。僕が見た動画もダイジェストものでしたから最終的にはわかりませんが、確認はしなかったのではないでしょうかね? なんでだろ? このへんは断言はできません。もし協会による「主審の威厳」云々が重しになっていたのだとしたら…札幌サポとしては、いや、選手たちだって泣くに泣けないですよね。

 ちなみに数原武志副審は40歳で、J1、J2ともに3ケタの試合記録が残っている経験豊富な審判です。中村太主審は39歳で、審判歴で言うと数原さんの方が先輩にあたります。

 今回とは反対のケースが昨年のホームの浦和戦。槙野が都倉を引き倒して蹴飛ばしたシーンをメイン側の副審が良く見ていましたから(目の前だったし・笑)、副審からの合図で主審は試合の進行を止め、第4審判をまじえて審判団が3人で協議をしたうえで、かつ選手や両軍ベンチともコミュニケーションをとった上でレッドカードを出しましたよね。あれは十分に適当な判断だったと思っております。
その試合の主審は佐藤隆治さん。悪い評判が立ったことがありますが、この人は先のレフェリーカレッジ出身者です。蛇足ながらかつて札幌の常務を務めた門脇徹さんによると「たいへんにいいヤツ!」だそうです(笑)。ロシアW杯に派遣されるそうです。選手の方の日本代表があまり期待できないですから、せめて審判団には頑張ってほしいですよね。

 でもねぇ…。審判ってホントたいへんな仕事ですよ。心の底からサッカーが好きで審判が好きじゃなきゃやっていられないと思います。誉められることなんかちょっとだけで、大半はブーブー言われ、しかもたった一回のミスで信用を失ってしまうことだってあるのですから…。
 徳島で同乗した審判さんも、その後は順調に「出世」なさって前回のコメント欄で書いた通り国際副審にも任命されたんですけれど…。…これ書くと誰だかわかちゃうかなぁ…。と、ある国際試合で痛恨のミスをしてしまい、それが「利益を受けたチームから買収された」とまで評判が立ちましてねぇ…。そのせいか今年は国際副審から外れております(泣)。でも副審は続けています。今年、札幌戦でも副審を務めました。

 なお、審判がもらっているお金はざっと次の通りです。J1主審はたった1試合で120,000円(!)ですよ。これらのほかに宿泊費も交通費も出るんですよ。このくらいもらわないとワリにあわないとお考えになりますか? 注目を浴びるカテゴリーの審判は、八百長を防ぐためにどの国でも高額な報酬をそもそももらっているものですけれどね。

(J1)主審 120,000 円、副審・追加副審60,000 円 第4の審判員 20,000 円
(J2)主審 60,000 円 副審 30,000 円 第4の審判員 10,000 円
(J3)主審 30,000 円 副審 10,000 円 第4の審判員 8,000 円

最後まで読んでいただきありがとうございました。
posted by higuma at 23:07| Comment(0) | スポォツ系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月02日

私信(期間限定)

「孔明さん」以外のアクセスをお断りします。また、当ブログではアクセスログを収集しております。


 孔明さんへ。たいへん長文になってしまいましたが、読み終えられましたら「読んだ」とだけで結構です。できれば「全部」あるいは「半分くらい」などを付け加えたうえで、コメント欄にご返信をいただきたく存じます。

 ではこれ以上丁寧に書けないというくらい丁寧に、かつ誤解を生じさせないように注意を払って書きます。

 まず僕は怒ってなんかいません。別に顔色も変わっておりません。僕が怒っていると孔明さんが感じているということは、孔明さん側に僕を怒らせるに足る原因があると無意識のうちに認めていらっしゃるのかもしれませんが、これは僕の推察の域を出ません。
 むしろいま僕はかなり困惑はしております。孔明さんは何をどう言っても理解してくれない人のかな、いやいや、自分のボキャブラリィは自覚以上に貧困だったのかなという、それは恐怖心に近い感覚を抱いています。

 それはともかく、ここは「僕も、孔明さんも、互いに冷静」という前提で、孔明さんを刺激しない表現に努めたいと思います。以後の文章は決して孔明さんを怒らせるために書いているのではありません。ただただ「理解してほしい」ために書くことにします。


(1) 孔明さんのコメント(2018-04-01 22:27)から
「あえて言うとそれはPKで1点をとっていたからですよ。それ以外何もありません。」

 これが僕のもともとの疑問に対する回答と受けとめます。
 失礼かもしれませんが正直「なぁんだ」と思ってしまいました。なぜ「PKが決ま」り、札幌が「その後もリードを保ったまま逃げ切れる」と孔明さんが思ったのかまで、僕としてはそこまで知りたいんです。が、それは控えます。だって「オレは札幌のサポーターだからさ」と言われたらハイそれまで!のような気がしますから。
 「PKで1点をとっていたから」札幌が勝つ!
 簡単明瞭です。かつ孔明さん硬派ですね。
 いまブログというのはネット社会においてはもはや時代遅れともいえる発信手段になったのかもしれませんが、それでも孔明さんが2005年から毎月更新を継続されているということは並々ならぬ熱意をお持ちの方だと思います。その勤勉さには敬意を表します。冗談じゃなく。本気で。
 だからこそ、たとえば「これこれこうで、それに対して相手はこうで、だからあのPKが認められていれば札幌は勝った」という、より論理的な意見を聞いてみたかったです。


 ここでおしまいにしてもかまわないのですけれど。


(2) 孔明さんのコメント(2018-04-01 22:27)から
 (ひぐま発言)誤審を認めた認めないは関係ないでしょ。認めたから勝ち点が増えたんですか? 増えていないでしょ。
 これはどういう意味ですか?

 すみません。「主審が試合後に誤審を認めた」とは書いておりませんでしたね。書かなかったことは僕のミスです。
 いくら主審が自らの誤審を試合後に認めても、試合結果には何ら反映されません。ただ、警告の対象者が変更されたり累積に加算されないなどの措置が下るケースはあります。それでも、

「誤審だと主審が認めることが大事なんです。」

 それはまったくもってその通りです。
 僕だってあれは100%PKを取られる"べき"プレーだったと認識しています。多くの皆さんが僕が「あれはPKじゃない」と言っていると勘違いをしているようですが、そんなことはまったく書いておりません。あれは昌子に弁解の余地は一切なく、PKを取られる"べき"プレーに違いありません。
 …現実としては取られなかったわけですが。
 それをいくら試合後であったとはいえ主審が「誤審でした」(新聞記事より解釈)と認めるのは勇気のいることだと思います。孔明さんのおっしゃる通り実に「大事」なことです。
 でも…試合後に認めてもらっても選手たちやチームには実利がないんです。言い換えれば無意味なんです。
 当然ご存知とは思いますが自分自身の後学のために競技規則を抜粋します。

<競技規則2017/2018>
5.主審
 2. 主審の決定
 (中略)
 プレーを再開した後、主審が前半または後半(延長戦を含む)終了の合図をしてフィールドを離れた後、または、試合を終結させた後は、主審がその直前の決定が正しくないことに気づいても、または、その他の審判員の助言を受けたとしても、決定を変えることができない。

 ゆえに、僕は「認めたから勝ち点が増えたんですか? 増えていないでしょ。」とつづった次第だったのです。もしかしたらこのひと言が孔明さんの逆鱗に触れたのではないかと思われます。撤回はしませんが、いささか不躾であったことは認めます。

 (2)についての説明は以上で終わります。ここまでご理解いただけましたでしょうか?


 補足として。中村太主審はJリーグ審判になって9年目。昨年までJ1では69試合で主審を務めています。決してベテランではありませんが、若手でもありません。


 次は僕が提示した疑問(なぜ『勝っていた』と言えるのか)からはかけ離れることなのですが、孔明さんから問われたことに対してひとつ謝罪があります。

(3)孔明さんのコメントレス(2018-04-01 22:27)から
 「何ですか?いきなりデータって。」

 これは取り下げます。撤回です。ごめんなさい。
 僕がこの部分を書くまでの間の孔明さんの論調からして「試合のスタッツ(支配率やシュート数等の各項目)では札幌が優位に立っていた」云々のレスが返ってくるかと、元々の投稿の文面から僕が勝手に考えてしまったのですよ。失礼を働きました。申し訳ありませんでした。


 ここから先は完全に蛇足です。読まなくても結構です。これまでの話とは直接関係のない与太話と受けとめてください。


 新聞記事で恐縮です。ご存知でしょうか?↓
https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK30707_S7A220C1000000/
 Jリーグでは…僕の記憶なのですが…少なくともJ3リーグでは2年ほど前から試合終了直後に終わったばかりの試合のビデオを見ながら審判が両クラブの関係者を交えて反省会のようなものを開いていたのです。
 J1では長らく、記事にあるように判定に疑義を抱いたクラブ側が「意見書」という形式でその趣旨をまとめ、ビデオ(DVD)を添えてJリーグ宛に送付し、何ヶ月かに一度審判団が集った際などで協議をし、数ヶ月後にクラブ側に回答があるというやり方が定着していました。クラブの関係者(M)さんに話を聞くと「ほとんどウチ(札幌)の主張が正しいと認めてくれていた」ということ、つまりJリーグ側が「誤審でした。すんません」と言っていたということでした。
 どう考えてもJ3の方式の方がスマートですし、話を明かしてくれた某J3クラブの運営担当の方とも「それJ1でもやればいいのにね」と話した記憶もあります。それが今年実現したということです。
 こういった形で両チームと審判団、さらにオーガナイズするリーグ側と、3者が顔をつき合わせて忌憚のない意見をぶつけあってコミュニケーションを円滑にし、クォリティの高いゲームを提供しようと、Jリーグも努力してはおります。これらの他にも審判6人制(第四審判を含む)だったり、まぁいろいろと試みられてはおりますよね。カネはかかることばかりですが。



 あと、僕の簡単なプロフィールなんですが、勝手に書いておきますので孔明さんが読む読まないはご自由に。その気になれば氏名まで簡単に探れます。
 コンサ初観戦=1997/4/20 水戸戦(笠松)
        ※同年の厚別川崎戦にも行っております。だから、どこかで会ってはおりますね。
 1998〜2002年頃=アウェイ戦ゴール裏応援リード隊
         (リーダーは2003年に一試合だけ)
 2005〜2011年=三角山放送局アウェイ戦レポーター(実況アナウンサー)
 2008〜2015年=コンサドーレ札幌サポーターズ持株会理事

 で、2016年以降は…個人的なアクシデントのせいもあったんですけれど、事実として札幌の試合にはまったく足を運んでおりません。これは自分でも驚いております。以後はユース応援専門でして、ユースの選手たちには「オレのような大人にはなるな!」と強く強く言って聞かせておりますのでご心配なく。

 最後に償いといたしまして、今後は孔明さんのブログにコメントは一切いたしません。お約束します。
 ただね、「正義の味方」さんは僕のブログにも喧嘩を売ってきたので、どこかできっちり落とし前をつけないといけないかなと思っております。そのうちお互い忘れるだろうけれど。

 お騒がせして申し訳ありませんでした。今後も身体に気をつけつつ、応援を継続されてください。
posted by higuma at 19:13| Comment(3) | スポォツ系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月30日

決勝戦の風景(中編)

 別にこんなコラムを書いていたからというわけではないと思うのだが、つい先日コンサドーレU−12がグループ通算12回目の全国大会の決勝に進出してしまった。おったまげーしょんである。
 こちらもまったく予想をしていない事態ではあったが、前日あたりからTwitterで大騒ぎしていたので、テレビ中継を楽しまれた方も少なくはないだろう。おっといけない。大会名は「全日本少年サッカー大会」、場所は鹿児島で開催されていた。
 この大会の歴史は相当古く、今年で41回目の開催となる。その昔はよみうりランドで永く開催されており、震災前の2010年まではJヴィレッジと西が丘で行われていた。最後のJ村開催となった2010年には菅大輝が出場しており、その4年前には後のドリームチームの主力となる堀米悠斗(現:アルビレックス新潟)、神田夢実(現:愛媛FC)、中原彰吾(現:ガンバ大阪→来期はヴィファーレン長崎との報道あり)、深井一希さん、下級生には前寛之(来期は水戸ホーリーホック)らが出場していた。このときの話は面倒なのでこのへんでも見てくんちぇ
 翌2011年から東日本大震災の影響で開催地が御殿場(裾野市)となり、大会形式も8人制に変更された。そう、昔はあの狭いピッチに11人出ていたのよ。その後2015年から鹿児島に移り、開催時期も夏休みから年末へとなったわけである。

 どうだ。ふだんU−12世代にぜんぜん関心のないルーキー諸君。本物のビョーキの知識を舐めたらいかんぜよ。

 昨年はひぐまさんも当然のように鹿児島まで飛んだ。そのせいで風邪をこじらせた(泣)。今年の大会はどうも予定が立たず来鹿を見送っていた。
 1次ラウンドはJリーグ下部のチームとは同組にならず、その意味では恵まれていたと思う。1次を突破してもどうせベスト16の柏レイソル戦で涙を呑むであろうと勝手に考えていた。ところが開始早々の一点を守りきり勝ってしまう。続く準々決勝のリオペードラ加賀相手にはお祭り状態で大勝し、北海道勢としては1999、2000年の札幌FC、2003年の帯広FC以来通算4回目の同大会ベスト4を決めてしまった。なおこの3チームの「FC」とは早い話が地域選抜で作られたチームであり、単独のチームとしては初めてということになる(2000年の札幌FCは最終的に準優勝)。
 話を戻すがこの世代は関東のチームには本当に弱い。理由としては、札幌U−12はとにかく「勝てばいい」というようなチーム作りや采配を取っていないということもあると考えられるのであるが、おそらく現場の浅沼達也監督などは「場数が違いますから」と口にするに違いない。

 そのへんの話はいい加減端に置いておかないとコラムが進まないんだが、行きがけの駄賃でもうひとつだけ。

 結局大宮をも降し決勝に進出した札幌はセレッソ大阪に逆転負けを喫した。記念すべき(?)10度目の準優勝である。試合をテレビで見た人からは「身体も大きい選手がいて将来楽しみだ」という声も聞かれていた。

 ひぐまは単純にそうは思っていない。いや、楽しみは楽しみなのだが、そこまでシロートじみた見方はしていない。

 12歳時点で身長160cm台というのは明らかに日本の小学6年生の平均を超えたものであり(注:150cm未満から約8〜9cm伸びるのが統計的なデータ)、成長曲線が世間一般に比べて早すぎるということに他ならない。日本の家庭における食生活の西洋化が本格化してすでに久しいが、時代も平成となって第3世代、第4世代と進むと、単なる遺伝とは異なる突然変異じみた成長が時折り見られるようになってきた。そういう選手が2人、3人と集まったチームが勝つのは割り合い簡単だ。その選手の高さに合わせてボールを集めればいいのだ。あるいは逆に長身選手を後ろに置いておけば相手のハイボールを全部はじき返し攻め手を数割奪うことができる。混戦の中でも長い足を伸ばせばシュートブロックすることも容易だ。

 そういうサッカーは、その選手にとって、その選手が属したチームにとって幸福なのだろうか?

 まず選手。長身選手は肩で当たるだけで体格に劣る相手選手を簡単にふっ飛ばせる。それで正しい1対1のテクニックが身につくのだろうか? テクニックを身につけていたとしても試合で始末の悪い主審に当たってしまうと正当なチャージであるにもかかわらず全部ファールを取られることさえある。競技規則には「過剰な力で」と記してあるだけで、反則かそうでないかは主審の裁量に任されているのだ。
 チームにとっては長身選手がいる間はそれでいいだろう。しかし当たり前だがいつかは卒業してしまうものだ。残された選手たちはどういうサッカーを指向すればよいと言うのか? 個人の力で個人戦術を磨くことを怠り、また上背に恵まれた選手の登場を待つしかないのだろうか?
 これはU−12からU−16あたりのカテゴリーを中心として、若年層を受け持っている全国の指導者やチーム全体に通じる問題であり、解決策を見ない永遠の課題と言える。U−18あたりになれば概ね身体に関する答えは出るし、U−10あたりならばそれほど気にすることはない話だ。そのため来年度から本格的にコンサドーレアカデミーでも選手個々の身体面や精神面の成長にあわせた育成にシフトしていくことになった。いや、すでに数年前から動き始めており、一層アクセルを踏んで展開していこうということで…いや、これは公式発表を待つしかないのだが、ついでに言えば女子に関してももっと書きたい。けど、なんとか年内にこの原稿をアップさせたいのでこのへんにする。いいよね?ジローさん(^^;;
 とにかく、U−12大会で大きな選手を見ることを真のビョーキ連中はさほど楽しみとは捉えていない。むしろやたらちっこいのにボール扱いが上手い選手に惹かれる。最高の尊敬を込めて「ヘンタイ」と呼んで称える。あー、こんな話もどうでもいい。「なぜ札幌アカデミーは決勝でなかなか勝てないのでしょうか?」な質問の答えも用意してあるのだがここでは書かない。早いトコ2003年決勝の話に行け。ホレ!(あ、トリさん優勝おめでとう)



7.高円宮杯全日本ユース(U−15)サッカー選手権(2003年)


 この年からJFAも考えを改め(?)出場チームは16のままだったものの、グループリーグ+決勝トーナメントというW杯同様のスタイルに変更された。「支店」を含めJクラブだらけとなったグループラウンドを堂々1位で突破し、準々決勝では岡本賢明(今年限りでロアッソ熊本で現役引退)がいたルーテル学院と対戦。「九州無敵」の評判通り強いルーテル・岡本に前半、混戦から先制シュートを決められたものの冷静かつ熱い試合運びで鮮やかに逆転。準決勝の千葉代表なのはなFC戦も相手GKが途中からフィールド選手となる(注:代わりのGKが入った)奇策を見せたが札幌は慌てず3−1で一蹴。2年連続で最終決戦へと駒を進めた。場所は国立。なおこの年は宮杯が単独開催された。やればできるじゃねぇか。
 相手はヴェルディ。あの森本貴幸(現:川崎フロンターレ)がいた。その森本は試合途中で負傷退場してしまったが、飛車落ちでもさすがヴェルディという堅さで札幌の攻撃を無得点に押さえ込み、延長の末に札幌は散った。
 喜びに沸くヴェルディイレブンを見ている指導者たちの中に冨樫剛一の姿を見つけた。そもそも彼はヴェルディのユース出身であり、前年の大会では札幌U−15のコーチとしてベンチにいた。スタンドからは「とがし〜〜!いつ札幌に帰ってくるんだぁ!?」「お前だけ優勝かぁ〜」という声が飛んでいた。…大半はオレだったんだが…(笑)。その後の彼はヴェルディアカデミーの指導者として順調な歩みを見せている。後に冨樫くんは「僕が教えていた選手も多数いましたね」と語っている。くそぅ。1人だけ日本一か。
 ついでに森本にも「また上でやろうなーっ!(対戦)」と声をかけ、森本くんもあの坊主頭で「ハイッ!」と元気よく爽やかに答えてくれたのだが、オレが言ったのは「U−18で」という意味であり、肝心の彼はその3ヵ月後にはトップ登録されてしまった。ぎゃふん(昭和のギャグ)。
 一方の札幌は2年連続の惜敗。しかしこの2年間の主力の中からU−18に昇格し、2年後に高円宮杯決勝を戦う選手が多数現れていた。そのときの相手もまたヴェルディだった。そしてまたも負けてしまったことは前回書いたとおり。


○高円宮杯全日本ユース選手権(U−15)
  2003年 札幌 0−1(延長) ヴェルディ



8.高円宮杯全日本ユース(U−15)サッカー選手権(2009年)


 他の年はともかく、この年の札幌の決勝進出は予想の範囲内にあった。前述の2006年少年大会の主力が中3となり、夏のクラブユース選手権でも優勝候補に挙げられていたくらいだ。しかしクラセンでは準々決勝でアスルクラロ沼津に足元をすくわれてしまう。油断と言おうか何と言おうか。数年後「あの試合はたぶん負けると思い、帰り支度をしていました」とアスルクラロのスタッフさんが語っているほど総合力で劣っている面はなかったはずだが、後に清水エスパルスのユースでも主軸となる加賀見翔の2発に泣いた。
 全32チームによる1次ラウンドを行い、首位の8チームのみがトーナメント戦に臨んだ。準決勝のヴェルディ戦は東京・西が丘での対戦。この頃には典型的なエレベーターチームに成り下がっていたトップチームの鬱憤を晴らそうとしたのか(だとしたら著しく動機が不純だ!)サポーターも数多く詰め掛けた中、3−1と快勝し国立での決勝に向かった。また天皇杯の前座試合だった。
 相手はヴィッセル神戸。この2009年以前から関西の強豪として鳴らしてはいたが、ウチとの対戦では激戦の末にいつも札幌に凱歌が上がっていたように記憶している。それがこの年を境に公式戦では一度も勝ててない。理由は簡単だ。村野晋氏(現:ヴィッセル神戸強化本部長兼アカデミー本部長兼アカデミー本部アカデミー運営部三木谷ハウスグループマネージャー…長いですね。ヤシオリ部長としましょう)がいるからだ。その昔(本当にもう9年前)札幌のGMだった時代に、「(札幌が)J2に落ちたってどうということないんですよ」と、至極当たり前のことをサポの前で語って、脳みその足りない連中からいわれのない激怒を買った人である。形式上J2落ちの責任を取って札幌を辞めたということになっているが、実際はそうではないことをオレは知っている。そのヤシオリ部長さんに今年の春、御殿場うさぎ島グラウンドで会った際に聞いてみた。「なんで勝てないんスかねぇ?」「かけてるカネが違うからよ」………。
 試合は先制され神田夢実のゴールで追いついたものの失点し1−2で敗れる。相手のDFに岩波拓也(来期から浦和レッズ)がいた。
 オレ的なハイライトは試合後にあった。これが国立での決勝3試合目ともなれば表彰式の勝手もわかっている。それ以前に天皇杯の決勝もこの頃はほぼ毎年見に行き、メインスタンドの値段の高い席に座っていたくらいだから、表彰式の際に選手たちがどの通路を通って表彰台まで上り、どんな段取りを経てどのルートで降りていくかパーペキに把握していたのだ。果たして、向かって左のホーム側に陣取った札幌側のサポ・関係者や父兄の皆さんを尻目に、一時的に封鎖される前の通路をアウェイ側へと向かう。その結果、敗れた札幌選手たちの沈んだ表情や、得点王表彰を受けた神田と下田康太(現:今年までVONDS市原…来年どーすんだ?)の姿をほぼ真正面から捉えることができた。どうだ。サッカーには負けたがオレ的な勝負には勝った。


○高円宮杯全日本ユース選手権(U−15)
  2009年 札幌 1−2 神戸
   札幌の得点者=神田



 くそぉ…。U−12が想定外のことをしてくれたお陰で2回どころか3回に分けなければならなくなった。初回を「前編」にしておいて良かった。今回は「後編」ではなく「中編」として、次回で完結ってことにしようか。できれば新年8日あたりまでお待ちください(笑)。
posted by higuma at 20:08| Comment(0) | スポォツ系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月25日

決勝戦の風景(前編)


 「決勝戦の景色は違う」


 かつてコンサドーレ札幌を率いていた柳下正明(現:ツエーゲン金沢監督)の言葉だ。時は2006年の12月25日。場所は湘南ベルマーレの練習場である馬入ふれあい公園。厳しい冬の訪れで積雪により練習場が使えなくなった札幌が、天皇杯に臨む練習のために湘南に貸していただいたグラウンドだった。柳下の言葉を続ける。

 「決勝に残ってプレーができるというのは本当に幸せだと思う。選手のときの方が緊張したよ。偉い人(JFAだけでなく皇族なども)が来ているし、ゲーム前に握手とかするでしょ。するとやっぱり…緊張するよ(苦笑)。サッカー以外のところでね。サッカーをやること自体は同じなんだけど、スタンドの雰囲気がぜんぜん違うしね。」

 1982年にヤマハ発動機(現:ジュビロ磐田)の選手として、札幌の監督に就任する直前の2004年にはジュビロの監督として、それぞれ国立競技場での天皇杯決勝を経験している柳下は、このシーズン限りで札幌の監督を退くこととなる。が、「監督を男にしよう!」と一致団結した選手たちの下、天皇杯での札幌は快進撃を見せる。千葉、新潟、甲府といった割とお手軽なJ1勢を次々と撃破し、エコパスタジアムで行われるガンバ大阪との準決勝に駒を進めていた。最終的にガンバに力負けし、この時点でのJ2クラブとしての初の決勝進出は夢と消え、決勝進出を控えて東京行きの航空券を手にしてた札幌サポーターも涙に暮れた。柳下も自身47回目の誕生日を国立で迎えることは叶わなかった。

 コンサドーレ・グループが日本サッカー協会主催もしくは共催の全国大会で決勝戦に進出した経験は、2017年末時点で実に11回もある。このコラムでは順番に…あ、すまん。ここでオレが取り上げるチームはプロのトップチームではなく、U−18から下のいわゆるアカデミー組織のことである。当然だな。トップは前述の2006年天皇杯の準決勝進出が最高成績だし。そもそも「決勝戦」が存在する大会自体が少ないから。
 ひぐまさんは11回のうち9回の決勝戦をナマで見ている。つまり「サッカー」での決勝戦はすべて現地観戦しているということで、こんな呆れた重病患者はそうそういないと思う。いたら前足挙げて。

 例によって長い長いアヴァンタイトルでした。ここからさらにSターウォーズを上回る大長編の本番。


1&2.全日本ユース(U−15)フットサル選手権(2001年&2014年)


 前項で「え?サッカー以外にもあるの?」と訝ったアナタ。あるんです。コンサドーレ札幌史上初の全国決勝戦。2001年1月、大阪の舞洲アリーナで開催された「全日本ユース(U−15)フットサル大会」がそれ。初出場だったコンサドーレ札幌U−15がちゃっかり初優勝まで遂げてしまっていたのだ。今日時点からさかのぼること約17年前。札幌初の決勝進出であり、かつ21世紀初の公式タイトル保持者になったわけである。
 当時18歳(え?)でまだまだアオかったひぐまさんもフットサル自体は当然知ってはいたが、「そんな大会あったのか!」と素直すぎる感想を持ったこの快挙。さっそくクラブに電話してことの次第を聞いたところ…「『好きにやれ』で優勝しちゃったんですよ」という答え。つまりこの大会の北海道予選が前年の冬に行われていたらしく(現在は違う)、「お前たちで出場権を取った大会なんだから」と、三浦雅之監督(現・コンケーンFC監督=タイ)も細かい指示は出さず、選手に任せていたら優勝しちゃったという嘘のような大会だったらしい。
 できるだけ詳しく調べておきたかったものの、なにせ資料がない。現在JFAのWebサイトを開いても最終成績しか取り上げられていない。増してや2001年当時はインターネットは世にあったものの、情報発信のきめの細かさは現在とは比較にならないほど貧しい。では出場したであろう選手に聞いてみればということで、時系列的に考えれば現在クラブの強化部でブイブイ言わせている(ヒーヒー言わされているともいう)あのS木T樹さんあたりが当時中3で出場していたかもしれないのだが、実はさんざん会っているくせになぜか話題にしたこともない。次に会ったら噛み付いて聞いてみようとは思っている。思っていてもすぐに忘れる。還暦を過ぎると(え?)物忘れが酷くなる。
 ちなみに同大会にはコンサドーレ旭川−15も2014年大会で準優勝している。監督は現在京都のトップチームでコーチを務めている佐藤尽だった。
 この2大会の決勝戦にはひぐまさんの姿はなかった。翌2015年大会からひぐまも現地観戦をしているのだが、会場が愛知県豊田市だったり三重県伊勢市だったりで世間の注目度も著しく低く、会場内は閑古鳥すら風邪を引くほどの寒々しい風景が広がっていた。でもさ、プレーヤーたちの熱量はサッカーに負けず劣らず熱い。決勝戦前にはFIFAのフェアプレーフラッグも選手を先導し、アンセムも響く。スタンドからは敗退したチームによる友情応援もある。屋内競技でもあり、サッカーとは違った昂ぶり、異なる興奮が会場を包んでいる。終始噛みまくりの場内アナウンスだけがどうにかならないものかと思うのだが、たった3日間で終わるのは惜しいほど素晴らしい大会だと思っている。

 ところで、コンサドーレグループU−15でもフットサルに対するスタンスには若干の相違がある。札幌も旭川もあくまでサッカー(注:選手たちは“外サッカー”と呼んでいる)のトレーニングの一環としてフットサルを行っていることに変わりはない。2年前に全国大会に出場した札幌U−15などは、U−18に昇格できない選手たちだけでチームを構成した。例年1月の初めはアカデミーの練習も冬休みとなるところを、わずか2日間だけ地元で練習を行って、成人の日が絡んだ3連休に開催される全国大会へと飛んだ。
 札幌に比べると旭川の方がもう少し勝負根性に長けた姿勢を取っている。札幌と違い屋内練習が出来る施設も限られており、自然に冬の間はフットサルで基本技術を磨くほかはない。どうせやるなら頂点を目指そうと、選手も指導者も熱は入る。まだ訪問したことはないのだが、恐らく釧路もそうだと思うし、ここ数年ライバルとしてコンサドーレや北海道のチームの前に立ちはだかっている長岡ジュニアユース(あるいは他の長岡地区のチーム)も似たり寄ったりだと思う。
 思いっきり話は逸れるが、先日U−18の全国リーグである高円宮杯プレミアリーグへの昇格をかけた参入戦の一回戦で対戦した帝京長岡高校には、かつてU−15時代にフットサル大会で鎬を削った選手たちが多数存在していた。

 話を戻す。続いてU−18に飛ぶ。

○全日本ユース(U−15)フットサル大会
  2001年 札幌 2−1 UFC・UB
  2014年 旭川 2−3 FC五十嵐ジュニアユース


3.日本クラブユース選手権(U−18)(2001年)


 初の決勝進出は2001年の日本クラブユース選手権。場所はJヴィレッジ。財前恵一監督(現:札幌アカデミーヘッドオブコーチ)に率いられたチームは出場5回目にして初めて1次ラウンドの壁を突破。日高拓磨(現:コンサドーレ旭川U−15コーチ)らの清水エスパルスを撃破し、準決勝では六車拓也(現:セレッソ大阪西U−15コーチ)らを擁し優勝候補の一角であった京都パープルサンガを下して決勝に駒を進めた。対戦相手は「FC」と書いて本当は「セクシー」と読ませたいFC東京だ。
 決勝は獣道を通った(ウソ)先のJヴィレッジスタジアムで開催された。話は逸れるが同スタジアムのこけら落としの試合は福島FCとコンサドーレ札幌がJFL時の1997年に対戦したものである(「(渡辺)卓祭り」だった試合だ)。福島FCはその年限りで解散してしまったため、現有クラブでは札幌が唯一こけら落としを体験したスタジアムとなっている。
 「硬くなってしまいましたね。あっという間に終わってました」とは、ゴールマウスを守った相川雄介(現:札幌アカデミーGKコーチ)である。ユース設立6年目の東京に対し、5年目の札幌。ともに決勝は初。フレッシュな顔ぶれで迎えた決勝戦は、馬場憂太の2ゴールで東京に凱歌が上がった。
 この大会、問題はスタンドの方にあった。呼んでもいないのにわんさかやってきたビョーキのサポーターたちがバックスタンドに陣取る。応援に名を借りて馬鹿騒ぎしたい気持ちはわかる。それでもタイコが4つってのは何なんだ(笑)。すいません僕ら以来17年間まったく成長していないんです。
 FC東京の応援は控え選手やU−15の選手たちが中心で…中に約1名スタッフのO場さんもいたんだがwww…、彼らと一緒の試合前の「adidas Japan!」コールも何なんだ(笑)。とにかく、サポーターたちが「ネタ」に走ることによって少しでも選手たちの緊張をほぐしてやろうとしたにもかかわらず、ガチガチ札幌U-18の決勝初挑戦は敗退で終わった。…「ネタ」が悪かったんじゃないか?双方ともその後サプライヤ契約を解除したし(^^;;;
 言うまでもないことだがMVPは馬場、MIPは得点王も獲得した札幌のプチ俺王あんにゃろが選ばれた。前述のフットサルで優勝しU−18に昇格していたS木T樹さんは1年生でレギュラー。怖いもの知らずでやりたい放題やっていた。出場はなかったが東京のベンチには李忠成(現:浦和レッズ)がいた。こちらもまだ1年生だった。


○日本クラブユース選手権U−18
  2001年 札幌 0−2 FC東京


4.高円宮杯全日本ユース選手権(U−18)(2005年)


 そのときの相手=FC東京の監督さんをしていたのが柴田峡氏。来年度からは松本山雅FCで編成部長を務める。その柴田氏と意外な形で再開したのが2005年の高円宮杯U−18。札幌U−18による2回目の全国決勝の舞台である。場所はさいたまスタジアム2002。
 高円宮杯はこの年から2010年までは開催方式が変更されていた。すなわちワールドカップと同様に、まずラウンドロビン(総当り)を戦い、ノックアウトのトーナメントへ勝ち上がるシステムになっていた。会期も夏の主要大会(日本クラブユース選手権、高校総合体育大会など)が終わった9月から10月初めにかけての集中開催となり、スケジュール的にはかなり濃密な大会となった。なお準々決勝と準決勝は今はなき国立(大)競技場で戦っている。
 札幌は静岡県藤枝市で開催された1次ラウンドを1勝1敗1分の2位で通過した。3位の鹿児島実業高校とも得失点差まで同成績で肩を並べていたのだが、当該対戦成績で鹿児島を破っていたため、やっとこさグループ2位を確保できた。そして決勝トーナメントでも勝負強さを発揮し、九州王者鵬翔高校を振り切り、夏の選手権王者青森山田高校も倒し、滝川二高校をも下して決勝へとやってきた。しかもうち2試合では退場者を出しながらの必死のパッチの全国制覇王手であった。決勝の対戦相手は東京ヴェルディ。この年から監督としてヴェルディのベンチに座ったのが柴田氏で、対する札幌U−18の監督は前年に就任した四方田修平だった。
 10月10日に行われた決勝戦。札幌は岡揚一のゴールで先制し、日本一の頂に片手はかけた。しかし予想に反し走りまくるヴェルディの勢いに圧倒され1−4で破れた。「走りまくるヴェルディ」という語句の違和感にリアリズムで返した人物こそが柴田氏だったのだ。いくら育成部門とはいえ、当時(現在でもかもしれないが)FC東京からヴェルディへの人の移動と言うのは言わば掟破りであった。個人技重視という伝統のスタイルを一変させた柴田ヴェルディのサッカーは、それでも4年で幕を閉じる。それほど育成の進化のサイクルは短くなっていた。
 札幌は藤田征也(現:湘南ベルマーレ)や西大伍(現:鹿島アントラーズ)らが主力で、対するヴェルディにはその後大竹七未さんをヨメにする弦巻健人や河野広貴(現:サガン鳥栖)らがいた。

○高円宮杯全日本ユース選手権(U−18)
  2005年 札幌 1−4 ヴェルディ
   札幌の得点者=岡


5.高円宮杯U−18サッカーリーグ チャンピオンシップ(2011年)


 この年から前述の高円宮杯が大きく変化した。春先からほぼ1年間に渡って日本列島を東西に分け全国の強豪U−18チームが総当りでリーグ戦を行い、双方の優勝チームが日本一を賭けて一発勝負に臨む形式となった。「まさに札幌のため」(四方田監督)という印象の大会であり、その初年度で札幌は東日本のプレミア・イーストを制した。
 例年札幌は全国の強豪チームとのガチンコ対決は夏の日本クラブユース選手権まで待たねばならなかった。ほぼ3月いっぱい、年によっては年度が変わってもなおグラウンドを雪に閉ざされ、かつライバルといえるレベルの高いチームが存在しない北海道では、この7月までの貴重な時間をどう消化していくかが指導者たちの悩みの種だった。それがこの年から4月の声を聞くと同時にチームをフルスロットルに高めることが可能になった。選手たちは当然高校生なので、学校の試験期間や夏休みの他の大会との兼ね合いでリーグ戦の中断期間は確かに存在するが、2週に1度の割合での遠征、前泊しての関東や東北、東海の強豪チームとの真剣勝負。北海道や雪国のチームには願ってもない夢のようなシステムが現実となったのだ。なお遠征費は半分協会負担となったらしい。
 札幌は春先から順調に白星を重ね、東日本の頂点に立った。そしてさいたまスタジアム。対するはその年のJユースカップで歴史に残る激闘を繰り広げた西の王者サンフレッチェ広島。相手に不足はない。
 ところが札幌に異変が起こる。前日練習で神田夢実(現:愛媛FC)が突然体調を崩した。嘔吐までしてしまったらしい。翌日の試合会場に姿を見せた神田の姿はいつもとまったく変わらなかったが、結局スタッフの判断で彼の出場は見送られた。それでなくてもこの年のU−17ワールドカップで「深井さん無双」の大活躍を見せた深井一希も膝の状態が思わしくなく、時間限定での出場と見られていた。今にして思い出せば札幌アカデミー史上最強といえるドリームチームの2枚が欠けた。加えて選手たちにリーグ戦とは異なる環境での緊張が襲う。おそらく神田の異変も過緊張によるものだったのだろう。硬くなった札幌は広島に押され、後半なだれ式に3失点した末に敗れてしまう。それはJユースでの対戦のようにイニシアティブを握り続け「サッカーで勝ち、勝負に負けた」敗戦ではなかった。
 もう一度やれば札幌が勝っていたかもしれない。しかし勝負に二度はない。あっても基本は学生チーム。同じメンツで、同じ舞台で対戦することはない。それが決勝戦なのだ。
 そして試合終了後には帰りの飛行機の都合で報道陣もロクロク取材できないうちにとっととスタジアムを去ってしまった。声を聞けたのは四方田監督と主将であった“ながこう”こと永井晃輔(現:ノルブリッツ北海道)だけ。ながこうの取材の最中に「時間だから」と連れて行かれてしまったのだ。…仮に札幌が優勝していたとしたらどうするつもりだったのだろう?(これはクラブ的には言われたくないことかもしれないが、自身の備忘録として書き留めておきたい)

 5つめ終わり。あとの5つはすべてU−15であり、残りのひとつはU−18で、唯一の戴冠となった2012年のJユースカップになる。

○高円宮杯U−18サッカーリーグ チャンピオンシップ
  2011年 札幌 1−3 サンフレッチェ広島
   札幌の得点者=中原



 決勝戦っていいよね。

 トーナメントの最中、ノックアウト方式でどちらかが大会を去る。日を重ねるにつれ生き残りチームが減っていく。最後の最後は常に2チーム。それがすなわち決勝戦。本命・対抗が当然のように上ってくることもあるし、時にあまり期待を寄せていなかったチームがあれよあれよという間に勝ち上がっていってしまい、優勝してしまうこともある。
 サッカーの場合は大抵準決勝から決勝戦まで日数が置かれている。その間にチームに関わりのある人たちの体温はグッと上がっていく。ワクワク感を募らせ、現地遠征の切符や宿の手配をする人も、地元に残ってテレビ観戦や応援会の企画を練る人もいる。神社にお参りをしたりという人もいるだろう。祝勝会の準備に急に追われる人もいるだろうし、そのための予算をかき集める人もいるだろう。
 北海道的には駒大苫小牧のときの熱狂が記憶に残っていると思われる。近年、休息日を挟むようにはなったが、基本的には甲子園=高校野球は連戦だ。沸騰点を迎えるまでの時間が少ない。その分、勝ち上がるにつれて応援する人々のテンションは急カーブで上昇する。歴史が一夜にして動くような瞬間を体感することができる。休息日をはさむサッカーでも上昇カーブが少し緩やかになるだけで、人々の心の高まりは同様なのだろう。近年ではなでしこジャパンの世界制覇がまだ記憶に新しい。ひぐまさんは2005年に「日本の女子は男子より早く世界の頂点に立てる」と予言してからわずか6年でそれが実現してしまった。残念なのはその予言をごくごく少数にしか話していなかったことだ(泣)。
 とにかく、勝者になろうが敗者となろうが、(ほぼ)等しく同じ試合数をこなすことができる。大会に最後まで残り「よく頑張ったね」とメダルやら記念品やらを受け取ることができる。それが決勝戦だ。

 コンサドーレ札幌U−15は過去5回も全国大会決勝戦を体験している。そのテンションの昂ぶりとカタルシスはトップチームしか応援したことがない人々は未だ味わったことがない。この先、味わえるとも限らない。いや、たぶん一生味わえ…(自粛)。


6.高円宮杯全日本ユース(U−15)サッカー選手権(2002年)

 気がつくとベスト4に進出していた。前年のU−18は活動開始5年目だったが、こちらも6年目で頂点が見えるところまで来た。
 この年は参加チームが全部で16しかなく、遠く広島で行われた1回戦と2回戦を勝ち上がると、2週間後には西が丘(現;味の素フィールド西が丘)の準決勝が待っていた。12月。氷雨が降る中で行われた準決勝はハーフナー・マイク(現:ヴィッセル神戸)のヘッド一発を守りきり、鹿島アントラーズとの決勝を迎えた。場所は冬晴れの国立競技場。
 そう。この頃の高円宮杯U−15はJFA的にはそれほど重要視していた大会ではなかった。ただ決勝戦だけはより多くの人々の目に触れたほうが良いだろうと考えられたのか、あるいは会場を借りる予算をケチッたためか、万単位の人で埋まるであろう天皇杯準決勝(の片方のカード)の前座に充てられた。おかげで応援に向かうこちらは別に興味のない天皇杯準決勝のチケットがないと入場できないという辛らつなイジメに遭ってしまった。準決勝のカードなど憶えていない。今から記録を調べようとも思わない。
 前述通りこの頃の札幌U−15にはマイクがいた。父であるディド・ハーフナーが札幌のGKコーチだったせいで、自然に札幌のアカデミーを進路に選んでいたからだ。現在公称194cmという身長はこの頃すでに180cm台の後半あたりにさしかかっていたかもしれない。とにかくデカかった。チームメイトとの集合写真でもアタマひとつどころか、ふたつみっつは抜きん出ていた。ポジションはFW。すでに書いたが準決勝では高さを生かしたヘディングシュートを炸裂させ、チームを決勝へと導いていた。もし彼が他のユースチームにいたのならば、味方はマイボールをひたすらマイクの頭めがけて蹴り込む戦法を貫き、多くの勝利を手にしていただろう。だが札幌はそれをやらなかった。札幌の指導者たちは「マイク大作戦」を是としなかった。
 この年、札幌のトップチームは混迷の中にいた。シーズン途中で柱谷哲二(現:2017年までヴァンラーレ八戸監督)監督を解任し、次期監督として招聘したイヴァンチェビッチも「ノー・アイディア」の名言とともにクラブを去った。次いでコーチだった張外龍を内部昇格させた際に、U−15監督を務めていた三浦雅之もトップのコーチとなり、代わって前年からU−15コーチとして招かれていた森下仁之(現:九州産業大学監督)が監督に、トップコーチだった冨樫剛一(現:東京ヴェルディアカデミーダイレクター → レアル・ソシエダ=スペインへコーチ留学中)がU−15のコーチになった。トップの体たらくがユースにまで影響を及ぼしたわけだが、誰ひとり「マイク大作戦」を指導しなかった。理由は簡単だ。「ユース選手が巣立って行く先々に、常にマイクがいるわけではない」からだ。自分の目で展開を読んで、自分の判断でボールと味方を動かしてゴールに迫る戦い方をこの年代のうちに憶える。そこにブレはなかった。無論マイクの高さはチームの武器ではある。だから準決勝のような試合もあるにはあった。
 果たして試合は鹿島が優位に立ち、黒沢の2ゴールでリードを奪う。札幌でゴールを陥れたのは西大伍。小憎らしいループシュートをすとんと鹿島ゴールへと落とし込み1点差に迫ったのだが、反撃もそこまで。
 試合後ガックリと肩を落とすマイクの写真が翌日のスポーツ紙のウラ一面を飾った。「キャプテン、ゾッコン」のキャプション付きで、つまりサッカー協会会長の川淵三郎がその高さに惚れ込み「将来が楽しみだ」といった内容だった。もっとも、当のマイクは翌年から父と一緒に横浜F・マリノスのU−18に進むことがこの時点で内定しており、札幌サポーター的には「全国区になった!…と思ったらすぐに他所の子」という悲哀を味わうこととなった。一方の西は3年後の2005年にはU−18の一員として高円宮杯決勝の舞台を踏み、さして注目を集めたわけでもなかったのにトップに昇格して日本代表にも選出された。現在時点で札幌アカデミーの出世頭となったわけだ。「おや、お連れさんの方がお上手だ」
 高円宮杯決勝が終わるとお約束通り早々に帰路についた。せっかくメインスタンドの指定席チケットを買っていたのに勿体ない(笑)。

○高円宮杯全日本ユース選手権(U−18)
  2005年 札幌 1−4 ヴェルディ
   札幌の得点者=西


(後半に続く。たぶん続く。恐らく今年中に)


※本文中正確には「北海道コンサドーレ札幌」とすべき箇所もあり、「ユース」「U−15」などを付け加えなければいけない部分もありますが、面倒くさいのでざっくり略してます。
posted by higuma at 11:07| Comment(0) | スポォツ系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月29日

ひぐまさん、福島を行く(8=最終回)

 たいへんお待たせをいたしました(決定)。今回で最終回。ひぐまさんの連載モノとしては珍しくきちんと終わるぞ(推定)。

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<地元新聞はひぐまさん滞在中の2日間とも1面トップで震災・原発事故関連のニュースを取り上げていた。5年たってもなお…である>

 エビ反るよーに木戸からいわきへと戻り、新常磐交通の高速バスに乗る。行き先は福島市。昔の「ヤンヤン」と比べるとチンケになった(推定)いわき駅ビルに入っている「生まれたときからどんぶりめし」の半田屋のめし(中)はまた今度の楽しみにしよう。夕刻…と言ってもまだ日は高い時刻に福島駅に到着する。

 夜は臨時穴裏手のシネコンで「64」後編を見て少々ガッカリした翌日。バスに搭載されて福島県営あづま陸上競技場に向かう。現在は東邦銀行がネーミングライツを取得し、「とうほうみんなのスタジアム」という名で通っている。
 きょうはJ3リーグの福島vs.盛岡の試合が予定されている。

 ここで会いたかった選手がいる。福島の小山内貴哉と盛岡の工藤光輝だ。残念ながら工藤は遠征に胎動していなかった。怪我ではない。戦術的な理由から工藤がメンバーに食い込む余地がないらしい。今期は開幕戦となったセレッソ大阪U−23戦以来出番がない。
 彼にはこの時点からさかのぼること2週間前に盛岡での試合(vs.富山戦)で会っている。そのためJヴィレッジに関する質問はできなかった。表情は明るかった。「あとちょっとのことなんですよね。それでメンバーは入れ替われると思います」と語っていた。ベンチにも入れないとはいえ今年は副主将も努めている。
 ついでに書くと富山の三上陽輔は右ハーフとして出場していた。移籍後ボランチやDFまで経験したらしいが、今シーズンはハーフに落ち着いているようだ。風貌は口の周りやアゴなどに何か黒いカビが生えているようで、実際に会ったら冷やかしてやろうと思っていたのだが、帰りの新幹線の時刻に短い尾を引かれ、泣く泣く盛岡駅へ向かった。

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<工藤光輝>

 話を福島に戻す。運動公園の中をすっかり夏の日を浴びながらのっしのっしと歩いていくと、反対側から知った顔が歩いてくる。太い首筋に汗を光らせ、見るからに練習後という風情だ。「あれ?」と声は聞こえる距離ではないが、明らかにそんな表情を緩ませる。小山内だ。「どうしたんスか?」とにこやかに迎えてくれる彼は、春先に右足の腓骨筋の腱(足の甲の外側)を断裂して戦線を離れていた。しかし「練習はしています。もう大丈夫です」と明るく答える。ただ、「怪我してしばらくは動けなかったので…少し太ってしまいましたね」と少々バツが悪そうだ。彼にJヴィレッジの写真を見せ、思い出話を聞いてみる。
 「Jヴィレッジですか…う〜ん…いい思い出は…ないです」らしい。高校3年時にプレミアリーグEASTの初代王者になった黄金世代の彼でも、Jヴィレッジは挫折の場所だったようだ。「中学のときも高校のときも早いラウンドで負けちゃっているんですよね」。中学3年時(2008年)は決勝トーナメントに進出したのだが、1勝1敗1分で薄氷の進出だった。唯一の勝利は南野拓実(現・ザルツブルグ)がいたセレッソ大阪U−15戦で、ラウンド16で敗れたガンバ大阪ジュニアユースには後にトップ昇格する田尻健や西野貴治らがいた。彼にとってのJヴィレッジは2010年の高校2年生時で終わっており、同じく1勝1敗1分だったのだが、勝ち抜けは叶わなかった。翌年からクラセンは群馬開催に変わっている。
 「今は飯坂温泉のほうに住んでいます。応援していただいていて、温泉にも安く入れるんです。試合復帰まではあと1か月半か2ヶ月くらいかかりそうです。天皇杯の福島県決勝(注・福島ユナイテッドはスーパーシードで決勝戦のみ出場)を目標にしています」とのこと。
 実は今期の小山内と同じように、2年前に福島に期限付き移籍をしていた堀米悠斗(現・札幌)が移籍の際、札幌に住むご両親に福島行きを反対されていたと聞いたことを思い出した。「僕の場合は大丈夫でしたね。2年前だったからじゃないですか?」「いまと状況が違っていたからね。ところで2020年の東京五輪に向けて、Jヴィレッジは施設を再開したいと言っているらしいけど、どう思う?」「間に合うんですかね?」といささか懐疑的だ。「実は福島に来てもあっち(太平洋側)のほうには全然行っていないのでよくわかりません」ということだった。本人は元気だったので、札幌サポーターのみなさんも安心してほしい。

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<小山内貴哉>

 とうほうみんなのスタジアムのメインスタンドをのっしのっしと歩いていると、上方から「こんちは」の声がする。振り向くと、なんとS木T樹(現・北海道コンサドーレ札幌強化部)さんがいた。レンタルで出している小山内に会ってきたということだ。「ついでに工藤にも会いたかったんですけ…うわっ!」言い終わらぬうちに首筋にがぶっと噛みついて引きずり倒す(推定)。この際だ。彼にもJヴィレッジの思い出を語ってもらう。
 「僕は…いい思い出しかないですね。結構勝ちましたから。1年生のときにいきなり準優勝だったでしょ。楽しかったですね。決勝戦はちょっと硬くなっちゃいましたが」そう。彼は高校1年生で出場した2001年のU−18クラセンでいきなり全国準優勝を体験している。決勝戦のみを戦ったスタジアムを知っているメンバーの一人だ。「2年のときもベスト4まで行きましたからね」。準々決勝でFC東京との前年度決勝戦カードを実現させ、梶山陽平(現・FC東京/当時から老け顔)とゴールを取り合ってPK戦の末に前年の借りを返している。「その前にも中学のときとかトレセンなんかでよく行っていたんですよ。初めて行ったのは確か小学生のときだったかな?」彼はコンサドーレユースU−15の一期生だった。U−15当時の彼をナマで見る機会はなかったが、札幌・岩見沢(彼は岩見沢出身)周辺ではなかなかに有名な選手だったらしい。プロで大輪の花を咲かせることは出来なかったが、深く印象に残っている選手だった。現在は爪で全身を引っかかれて血だらけでひぐまさんの前に横たわっている。ご愁傷さま。

 その当時のコンサドーレの育成部担当で、現在は盛岡で運営部長をされている渡部輝道さんにも少し話を伺うことが出来た。「みんな集まって一箇所でてきたのがよかったですよね」。その通り。周辺に遊び場も盛り場もないため、ひたすら選手たちは周辺の宿舎(小さなホテルや民宿など)とJヴィレッジを往復するだけだった。他のグループの試合を見たり、同じピッチでウォーミングアップを図ったり、横のつながりも数多く生まれたと思う。
 (なお本人が「写りたくない」らしく、渡部さんの写真はありません・笑)

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<S木T樹さん。写真は襲撃の前>

 福島訪問記は以上。あくまで蛇足としてJヴィレッジを巡る旅としてあと2人ほど声をご紹介したい。

 福島から横浜へ戻ってきて2週間後の6月24日(金)の夕方、今度は北海道へ飛んだ。旭川空港からバスで東川町へ向かい、昨年も出来心で訪れたコンサドーレ旭川U−15の練習場に、今年もまたついうっかりやってきた。
 東川グラウンドに向かってのっしのっしと歩いていると、偶然バンを運転していた松山育司コーチに捕獲された(笑)。クルマに同乗させていただき、練習場の鉄扉までやってくる。そこで門を開けてくれたのがお目当ての人だった。日高拓磨コーチである。

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<コンサドーレ旭川・東川グラウンド。一番昼間の長い時期に訪れた>

 現役時代と変わらぬスリムな体系の日高はサガン鳥栖や札幌でのプロ生活が知られているが、高校生時代は生まれ故郷の広島県福山市を離れ、清水エスパルスのユースに所属していた。「知人のツテがありまして、エスパルスのセレクションを受けたら通ったんです」と語る彼は成長期には攻撃的なポジションを得ており、エスパルスユースでも「FWか右サイドでしたね」と語っている。
 日高が出場したクラセンは2001年。前述の札幌U−18が準優勝を飾った年だ。「よく憶えていますよ。悔しくて悔しくて忘れられなかったです。タツ(あんにゃろ=現・AGGREスポーツクラブU−15コーチ)にやられたんですよね」。清水はグループラウンドを3戦全勝で蹴散らし、順調に準々決勝に進出し、札幌と対戦した。下馬評では清水有利と見られていたが、今大会のダークホース札幌が2−0で勝ってしまう。よほど悔しかったのかその後に行われた順位決定戦(注・当時高円宮杯への出場権はクラセン上位5チームに与えられていたため実施された)は「そんなのやりましたっけ?…え〜…憶えていないです」と、すっかり記憶の外へ押し出されているらしい。順位決定戦は2試合行われ、最終的に清水は5位を勝ち取り高円宮杯への切符を手にしているのだが、その2試合でFW日高はともにゴールを決めていたにもかかわらずである。ちなみに高円宮杯初出場の札幌は富山県高岡市で地元富山の水橋高校(瀬戸春樹の出身校。対戦時にはJリーガーとして札幌からガンバ大阪に移籍していた)と対戦し、どう考えても勝てる相手だったにもかかわらず1−0で負けた。高岡での2日目がヒマでしょーがなかった(泣)。
 クラセン準々決勝での札幌との試合ではまず浜本伸孝(→ ジェフ市原アマチュアなど)の超ロングシュートで清水のネットが揺れ、続いて終了間際にあんにゃろが追加点を決めて札幌に凱歌が上がった。
 「その当時、僕らの世代は『谷間』と言われていたんです。上がすごい連中ばかりで、下も上手かったんですよ。だから『なにくそ』って思ってやってましたけどね」。ひとつ上の清水ユース卒団生には村松潤(現・ギラヴァンツ北九州)や札幌でも活躍した高木純平(現・東京ヴェルディ)らがおり、日高よりひとつ下の世代では杉山浩太(現・清水)や、今期札幌へ期限付きで移籍してきた菊地直哉らがいた。彼らは2002年にクラセンU−18初優勝を遂げている(※)。
 明治大学(偶然だが盛岡の神川明彦監督が当時の明治を指揮していた)の4年生のときにアモーレ長友が入学してきた。「タイコ叩いてましたね(笑)」と日高は証言している。その後の長友のサクセスストーリーに日高は直接かかわってはおらず、大学時代にはただ応援要員だった記憶しかない。
 「怪我から復帰しても、もう走れなくなりました」と、昨年一杯でカターレ富山を現役引退した日高は、今年からアカデミーコーチとして旭川で暮らす。主に中学1年生を受け持っている。輪になった選手たちにボールを放り上げてヘディングの練習を繰り返していた。「旭川には小学生年代に正しいヘディングのフォームを教えられる人が少ないのかもしれないですね」と、吐き捨てるわけでもなく面倒がるわけでもなく、数回子供たちに繰り返させては「腰を使って、こう」と手本を示し、それを繰り返していた。砂地が水を吸い込むように、子供たちのフォームが変わっていく。熱心に教えているその様子は、すでに立派な指導者の姿となっていた。

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<日高拓麿コーチ>

 もう一人、高木貴弘にも話を聞きたかった。こちらも昨年J3相模原を最後のクラブとして現役を退き、再び北海道へ渡ってきた一員だ。旭川U−15のGKコーチに就任していたのだが、あいにくこの日は札幌のユースの指導で旭川を留守にしていた。彼は日高より2年前の1999年にジェフ市原ユース(当時)の一員として札幌U−18と対戦している。彼自身は試合には出ていない。札幌との試合でゴールマウスを守ったのは太洋一(現・東京23FC)で、高木は交代要員だったが、彼らを含めこの当時のジェフユースからは多数のプロ入り選手が出ているのは以前書いたとおり。
 高木とは秋のJユースカップでの激闘の方が記憶に深い。その試合で途中から札幌のゴールマウスに立ったのが、現在は札幌U−18を指導している相川雄介だった。当時高校1年生だった。

 最後もGKから。松原修平。函館からコンサドーレU−15に加わり、U−18までの6年間を過ごした。現在はファジアーノ岡山に所属し、選手会長についている。道産子、かつ体格がガッツリ系のため、岡山サポーターからは「クマー」と呼ばれているらしい。
 行き方を調べると「クルマを持っていない人は来るな」としか読めない政田サッカー場。地元在住のサポーターのクルマに搭載され延々と岡山市内を走りやっとのことでたどり着く。不安定な空模様で時折り細かい雨粒も落ちてくる中、札幌でのプレー経験もある富永康博コーチのハードな練習に食らいつく姿をネット越しに見る。
 居残り練習の終わりに声をかける。彼とはファジアーノ岡山ネクスト登録時にも何度か会ってはいるが、腰から下の下半身が確かに「クマー」になっていた。
 「お久しぶりっす。いや〜トミ(富永)コーチの練習キツいっす」。
 彼は小山内の1学年上で三上陽輔と同期だ。黄金世代の入り口あたりと言えばいいだろう。が、夏の戦跡はそう輝かしいものではなかった。「Jヴィレッジっすか?…う〜ん…。愛媛FC戦すね。2試合目の。自分史上最悪の試合をしてしまいました」。高校2年生からレギュラーをつかんでいた松原の3年生時。2010年クラセンU−18初戦のグランセナFC戦(新潟)では14対0、相手のシュート数も1本という、いわゆる「GKが風邪を引く」試合で爆勝したにもかかわらず、愛媛FC戦では自らのミスで1−2と敗れる波乱を演じてしまった。必勝を期した3戦目も「引き分けちゃったですよね(相手は浦和)。相手に慎也(矢島)がいましたよね」。現在より勝ち抜けレギュレーションの厳しかった中、グループ突破は成らなかった。リオ五輪に旅立った矢島とは昨年から同じ釜の飯を食う仲で、矢島が1学年下ながらウマが合うようである。
 「愛媛にはそのあと高円宮杯でリベンジしたんですよね。2年のときは準々決勝まで行って、久保裕也(現・スイス ヤングボ−イズ)にやられたんですよ」。2年のときのクラセンU−18では初戦のヴェルディには屈したものの、セレッソ大阪、徳島ヴォルティスを撃破し、3チームで並んだ勝ち点6の争いを得失点差で制し、決勝トーナメントに進んだ。その試合で京都サンガの久保と駒井善成(現・浦和レッズ)にゴールを許し敗退している。
 「コンサに入るまではJヴィレッジには行ったことがなかったんです。でもあれだけの施設ですし、全チームが同じところに集まって試合が出来るのっていいですよね」と、Jヴィレッジでアカデミー世代を終えた最後の学年(2010年度卒団)である彼は語ってくれた。現在の立ち位置としては第3GKらしい。岡山の正GKである中林洋次の壁は厚く高いが、持ち前の明るくくじけないキャラクターで頑張ってほしい。

 松原が「オールJ村最後の世代」ならば、一度でも公式大会でJヴィレッジに出場したことがある世代としては、小学6年生で「全日本少年サッカー大会」に出場した菅大輝(現・コンサドーレ札幌U−18=高校3年生世代)が最後になる。小学5年生で出たことのある子も多少はいるだろうが、小学4年生となるとほとんどいないと思われる。したがってこの1、2年で我が国のユース世代はまるっきり「J村ロス」世代に染まってしまうことになる。

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クマー 松原修平>

 先ごろ東京電力や日本サッカー協会などは、相次いでJヴィレッジの将来像についてのステートメントを報道発表した。それによると、2年後の2018年夏には部分的にトレーニング施設としての営業を再開し、2020年に東京で開催される五輪の男女サッカーチームの強化合宿地として利用したいという意向のようである。また、2019年に日本開催が決まっているラグビーW杯の事前合宿地としても代表チームを誘致したい計画を持っているようだ。現実問題として芝生に種を蒔いてスポーツターフとして利用できるまでには最短で1年かかる(←このことはかつて北の方の某市の某練習場で種を蒔いて半年足らずなのに時の市長が芝をはがし…って、いい加減忘れてやろう^^;;)。イネ科の植物である芝生の種まきは(オーバーシードは除いて)春だ。復旧作業をいっそう加速させていけば到達できると思う。非現実的なスケジュールとは言えない。

 大人はそれでいいかもしれない。しかしながら子供は、いや、子を持つ親はどうだろう?「再開しました」で、即Jヴィレッジへ我が子を送り出せるのか?「除染しました」「線量落ちました」「安全です大丈夫です」の言葉だけで、全国の親はそれだけで納得できるのだろうか?
 確かに震災から5年。懸念されていた生態系への深刻な影響は見えていない。報道されていないだけではなく、実際に原発から20キロ圏内を歩いてみて、少なくともその地域までは異常と言える異常は見つからなかった。20キロをわずかに超えた公園ではパークゴルフやサイクリングに勤しむ大人たちの姿すら見えた。今やJヴィレッジと道の駅だけが震災の爪あとを強烈に感じさせている。フレコンパックが積まれていても、そこは「真っ白」な場所に戻ったのだ。歩いてみてわかった。
 それでもレベル7という最悪の「深刻な事態」を起こしてしまった福島第一原発事故。「溶けた燃料が中国まで堕ちていってしまう」という「チャイナ・シンドローム」のスリーマイル島事故(1979年)でさえレベル5だったのだから、その恐ろしさは推し量れる。20キロ圏の淵を見てきた現時点で、と断った上で、放射能事故の深刻な影響は限定された地域に限られてはいるのだろうと推察される。

 加えると、大会を開くには開催場所だけではなく周辺環境が元通りになることも重要なポイントだ。Jヴィレッジ周辺では相当数の宿泊施設が休業や廃業を余儀なくされただろう。春のU−15のプレミアカップ程度の参加チーム、参加者数でJヴィレッジ自前のホテルで収容が可能だと思われる程度しか賄えないのではないか(実際参加チームはすべてJヴィレッジに宿泊していた)。楢葉町は「真っ白」に戻ったとはいえ今年2月の時点で住民登録されているうち5.7%しか戻っていないらしい。これは横浜の穴に戻ってから知った。6月時点ではもっと戻ってきていたのかもしれないが…。

 福島県によると、原発事故前の2009年度には小学生から大学生まで福島県外から延べ約55万人が訪れていたという。事故後の2011年度は7万人に減少。戻りつつあるとはいえ、2014年度でも25万人と半分に満たない。(産経新聞2016/1/16付より)
 大人たちはいつも地域振興やら経済効果やらそろばん優先で将来を語りたがる。
 Jヴィレッジが子供たちの歓声で包まれる日は、果たして戻ってくるのか否か。一日でも早く「震災後」に別れを告げ、「震災前」のあの明るかった日々が相双地域に帰ってくることをただただ願わずにはいられない。


 よし、終わったぞ!


(※)菊地直哉は高校世代は清水商業でした。エスパルスに強化指定選手として登録されておりました。本文はそのままにしてきますが、ここに訂正いたします。

posted by higuma at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ひぐまの日常系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする