2016年07月29日

ひぐまさん、福島を行く(8=最終回)

 たいへんお待たせをいたしました(決定)。今回で最終回。ひぐまさんの連載モノとしては珍しくきちんと終わるぞ(推定)。

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<地元新聞はひぐまさん滞在中の2日間とも1面トップで震災・原発事故関連のニュースを取り上げていた。5年たってもなお…である>

 エビ反るよーに木戸からいわきへと戻り、新常磐交通の高速バスに乗る。行き先は福島市。昔の「ヤンヤン」と比べるとチンケになった(推定)いわき駅ビルに入っている「生まれたときからどんぶりめし」の半田屋のめし(中)はまた今度の楽しみにしよう。夕刻…と言ってもまだ日は高い時刻に福島駅に到着する。

 夜は臨時穴裏手のシネコンで「64」後編を見て少々ガッカリした翌日。バスに搭載されて福島県営あづま陸上競技場に向かう。現在は東邦銀行がネーミングライツを取得し、「とうほうみんなのスタジアム」という名で通っている。
 きょうはJ3リーグの福島vs.盛岡の試合が予定されている。

 ここで会いたかった選手がいる。福島の小山内貴哉と盛岡の工藤光輝だ。残念ながら工藤は遠征に胎動していなかった。怪我ではない。戦術的な理由から工藤がメンバーに食い込む余地がないらしい。今期は開幕戦となったセレッソ大阪U−23戦以来出番がない。
 彼にはこの時点からさかのぼること2週間前に盛岡での試合(vs.富山戦)で会っている。そのためJヴィレッジに関する質問はできなかった。表情は明るかった。「あとちょっとのことなんですよね。それでメンバーは入れ替われると思います」と語っていた。ベンチにも入れないとはいえ今年は副主将も努めている。
 ついでに書くと富山の三上陽輔は右ハーフとして出場していた。移籍後ボランチやDFまで経験したらしいが、今シーズンはハーフに落ち着いているようだ。風貌は口の周りやアゴなどに何か黒いカビが生えているようで、実際に会ったら冷やかしてやろうと思っていたのだが、帰りの新幹線の時刻に短い尾を引かれ、泣く泣く盛岡駅へ向かった。

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<工藤光輝>

 話を福島に戻す。運動公園の中をすっかり夏の日を浴びながらのっしのっしと歩いていくと、反対側から知った顔が歩いてくる。太い首筋に汗を光らせ、見るからに練習後という風情だ。「あれ?」と声は聞こえる距離ではないが、明らかにそんな表情を緩ませる。小山内だ。「どうしたんスか?」とにこやかに迎えてくれる彼は、春先に右足の腓骨筋の腱(足の甲の外側)を断裂して戦線を離れていた。しかし「練習はしています。もう大丈夫です」と明るく答える。ただ、「怪我してしばらくは動けなかったので…少し太ってしまいましたね」と少々バツが悪そうだ。彼にJヴィレッジの写真を見せ、思い出話を聞いてみる。
 「Jヴィレッジですか…う〜ん…いい思い出は…ないです」らしい。高校3年時にプレミアリーグEASTの初代王者になった黄金世代の彼でも、Jヴィレッジは挫折の場所だったようだ。「中学のときも高校のときも早いラウンドで負けちゃっているんですよね」。中学3年時(2008年)は決勝トーナメントに進出したのだが、1勝1敗1分で薄氷の進出だった。唯一の勝利は南野拓実(現・ザルツブルグ)がいたセレッソ大阪U−15戦で、ラウンド16で敗れたガンバ大阪ジュニアユースには後にトップ昇格する田尻健や西野貴治らがいた。彼にとってのJヴィレッジは2010年の高校2年生時で終わっており、同じく1勝1敗1分だったのだが、勝ち抜けは叶わなかった。翌年からクラセンは群馬開催に変わっている。
 「今は飯坂温泉のほうに住んでいます。応援していただいていて、温泉にも安く入れるんです。試合復帰まではあと1か月半か2ヶ月くらいかかりそうです。天皇杯の福島県決勝(注・福島ユナイテッドはスーパーシードで決勝戦のみ出場)を目標にしています」とのこと。
 実は今期の小山内と同じように、2年前に福島に期限付き移籍をしていた堀米悠斗(現・札幌)が移籍の際、札幌に住むご両親に福島行きを反対されていたと聞いたことを思い出した。「僕の場合は大丈夫でしたね。2年前だったからじゃないですか?」「いまと状況が違っていたからね。ところで2020年の東京五輪に向けて、Jヴィレッジは施設を再開したいと言っているらしいけど、どう思う?」「間に合うんですかね?」といささか懐疑的だ。「実は福島に来てもあっち(太平洋側)のほうには全然行っていないのでよくわかりません」ということだった。本人は元気だったので、札幌サポーターのみなさんも安心してほしい。

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<小山内貴哉>

 とうほうみんなのスタジアムのメインスタンドをのっしのっしと歩いていると、上方から「こんちは」の声がする。振り向くと、なんとS木T樹(現・北海道コンサドーレ札幌強化部)さんがいた。レンタルで出している小山内に会ってきたということだ。「ついでに工藤にも会いたかったんですけ…うわっ!」言い終わらぬうちに首筋にがぶっと噛みついて引きずり倒す(推定)。この際だ。彼にもJヴィレッジの思い出を語ってもらう。
 「僕は…いい思い出しかないですね。結構勝ちましたから。1年生のときにいきなり準優勝だったでしょ。楽しかったですね。決勝戦はちょっと硬くなっちゃいましたが」そう。彼は高校1年生で出場した2001年のU−18クラセンでいきなり全国準優勝を体験している。決勝戦のみを戦ったスタジアムを知っているメンバーの一人だ。「2年のときもベスト4まで行きましたからね」。準々決勝でFC東京との前年度決勝戦カードを実現させ、梶山陽平(現・FC東京/当時から老け顔)とゴールを取り合ってPK戦の末に前年の借りを返している。「その前にも中学のときとかトレセンなんかでよく行っていたんですよ。初めて行ったのは確か小学生のときだったかな?」彼はコンサドーレユースU−15の一期生だった。U−15当時の彼をナマで見る機会はなかったが、札幌・岩見沢(彼は岩見沢出身)周辺ではなかなかに有名な選手だったらしい。プロで大輪の花を咲かせることは出来なかったが、深く印象に残っている選手だった。現在は爪で全身を引っかかれて血だらけでひぐまさんの前に横たわっている。ご愁傷さま。

 その当時のコンサドーレの育成部担当で、現在は盛岡で運営部長をされている渡部輝道さんにも少し話を伺うことが出来た。「みんな集まって一箇所でてきたのがよかったですよね」。その通り。周辺に遊び場も盛り場もないため、ひたすら選手たちは周辺の宿舎(小さなホテルや民宿など)とJヴィレッジを往復するだけだった。他のグループの試合を見たり、同じピッチでウォーミングアップを図ったり、横のつながりも数多く生まれたと思う。
 (なお本人が「写りたくない」らしく、渡部さんの写真はありません・笑)

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<S木T樹さん。写真は襲撃の前>

 福島訪問記は以上。あくまで蛇足としてJヴィレッジを巡る旅としてあと2人ほど声をご紹介したい。

 福島から横浜へ戻ってきて2週間後の6月24日(金)の夕方、今度は北海道へ飛んだ。旭川空港からバスで東川町へ向かい、昨年も出来心で訪れたコンサドーレ旭川U−15の練習場に、今年もまたついうっかりやってきた。
 東川グラウンドに向かってのっしのっしと歩いていると、偶然バンを運転していた松山育司コーチに捕獲された(笑)。クルマに同乗させていただき、練習場の鉄扉までやってくる。そこで門を開けてくれたのがお目当ての人だった。日高拓磨コーチである。

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<コンサドーレ旭川・東川グラウンド。一番昼間の長い時期に訪れた>

 現役時代と変わらぬスリムな体系の日高はサガン鳥栖や札幌でのプロ生活が知られているが、高校生時代は生まれ故郷の広島県福山市を離れ、清水エスパルスのユースに所属していた。「知人のツテがありまして、エスパルスのセレクションを受けたら通ったんです」と語る彼は成長期には攻撃的なポジションを得ており、エスパルスユースでも「FWか右サイドでしたね」と語っている。
 日高が出場したクラセンは2001年。前述の札幌U−18が準優勝を飾った年だ。「よく憶えていますよ。悔しくて悔しくて忘れられなかったです。タツ(あんにゃろ=現・AGGREスポーツクラブU−15コーチ)にやられたんですよね」。清水はグループラウンドを3戦全勝で蹴散らし、順調に準々決勝に進出し、札幌と対戦した。下馬評では清水有利と見られていたが、今大会のダークホース札幌が2−0で勝ってしまう。よほど悔しかったのかその後に行われた順位決定戦(注・当時高円宮杯への出場権はクラセン上位5チームに与えられていたため実施された)は「そんなのやりましたっけ?…え〜…憶えていないです」と、すっかり記憶の外へ押し出されているらしい。順位決定戦は2試合行われ、最終的に清水は5位を勝ち取り高円宮杯への切符を手にしているのだが、その2試合でFW日高はともにゴールを決めていたにもかかわらずである。ちなみに高円宮杯初出場の札幌は富山県高岡市で地元富山の水橋高校(瀬戸春樹の出身校。対戦時にはJリーガーとして札幌からガンバ大阪に移籍していた)と対戦し、どう考えても勝てる相手だったにもかかわらず1−0で負けた。高岡での2日目がヒマでしょーがなかった(泣)。
 クラセン準々決勝での札幌との試合ではまず浜本伸孝(→ ジェフ市原アマチュアなど)の超ロングシュートで清水のネットが揺れ、続いて終了間際にあんにゃろが追加点を決めて札幌に凱歌が上がった。
 「その当時、僕らの世代は『谷間』と言われていたんです。上がすごい連中ばかりで、下も上手かったんですよ。だから『なにくそ』って思ってやってましたけどね」。ひとつ上の清水ユース卒団生には村松潤(現・ギラヴァンツ北九州)や札幌でも活躍した高木純平(現・東京ヴェルディ)らがおり、日高よりひとつ下の世代では杉山浩太(現・清水)や、今期札幌へ期限付きで移籍してきた菊地直哉らがいた。彼らは2002年にクラセンU−18初優勝を遂げている(※)。
 明治大学(偶然だが盛岡の神川明彦監督が当時の明治を指揮していた)の4年生のときにアモーレ長友が入学してきた。「タイコ叩いてましたね(笑)」と日高は証言している。その後の長友のサクセスストーリーに日高は直接かかわってはおらず、大学時代にはただ応援要員だった記憶しかない。
 「怪我から復帰しても、もう走れなくなりました」と、昨年一杯でカターレ富山を現役引退した日高は、今年からアカデミーコーチとして旭川で暮らす。主に中学1年生を受け持っている。輪になった選手たちにボールを放り上げてヘディングの練習を繰り返していた。「旭川には小学生年代に正しいヘディングのフォームを教えられる人が少ないのかもしれないですね」と、吐き捨てるわけでもなく面倒がるわけでもなく、数回子供たちに繰り返させては「腰を使って、こう」と手本を示し、それを繰り返していた。砂地が水を吸い込むように、子供たちのフォームが変わっていく。熱心に教えているその様子は、すでに立派な指導者の姿となっていた。

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<日高拓麿コーチ>

 もう一人、高木貴弘にも話を聞きたかった。こちらも昨年J3相模原を最後のクラブとして現役を退き、再び北海道へ渡ってきた一員だ。旭川U−15のGKコーチに就任していたのだが、あいにくこの日は札幌のユースの指導で旭川を留守にしていた。彼は日高より2年前の1999年にジェフ市原ユース(当時)の一員として札幌U−18と対戦している。彼自身は試合には出ていない。札幌との試合でゴールマウスを守ったのは太洋一(現・東京23FC)で、高木は交代要員だったが、彼らを含めこの当時のジェフユースからは多数のプロ入り選手が出ているのは以前書いたとおり。
 高木とは秋のJユースカップでの激闘の方が記憶に深い。その試合で途中から札幌のゴールマウスに立ったのが、現在は札幌U−18を指導している相川雄介だった。当時高校1年生だった。

 最後もGKから。松原修平。函館からコンサドーレU−15に加わり、U−18までの6年間を過ごした。現在はファジアーノ岡山に所属し、選手会長についている。道産子、かつ体格がガッツリ系のため、岡山サポーターからは「クマー」と呼ばれているらしい。
 行き方を調べると「クルマを持っていない人は来るな」としか読めない政田サッカー場。地元在住のサポーターのクルマに搭載され延々と岡山市内を走りやっとのことでたどり着く。不安定な空模様で時折り細かい雨粒も落ちてくる中、札幌でのプレー経験もある富永康博コーチのハードな練習に食らいつく姿をネット越しに見る。
 居残り練習の終わりに声をかける。彼とはファジアーノ岡山ネクスト登録時にも何度か会ってはいるが、腰から下の下半身が確かに「クマー」になっていた。
 「お久しぶりっす。いや〜トミ(富永)コーチの練習キツいっす」。
 彼は小山内の1学年上で三上陽輔と同期だ。黄金世代の入り口あたりと言えばいいだろう。が、夏の戦跡はそう輝かしいものではなかった。「Jヴィレッジっすか?…う〜ん…。愛媛FC戦すね。2試合目の。自分史上最悪の試合をしてしまいました」。高校2年生からレギュラーをつかんでいた松原の3年生時。2010年クラセンU−18初戦のグランセナFC戦(新潟)では14対0、相手のシュート数も1本という、いわゆる「GKが風邪を引く」試合で爆勝したにもかかわらず、愛媛FC戦では自らのミスで1−2と敗れる波乱を演じてしまった。必勝を期した3戦目も「引き分けちゃったですよね(相手は浦和)。相手に慎也(矢島)がいましたよね」。現在より勝ち抜けレギュレーションの厳しかった中、グループ突破は成らなかった。リオ五輪に旅立った矢島とは昨年から同じ釜の飯を食う仲で、矢島が1学年下ながらウマが合うようである。
 「愛媛にはそのあと高円宮杯でリベンジしたんですよね。2年のときは準々決勝まで行って、久保裕也(現・スイス ヤングボ−イズ)にやられたんですよ」。2年のときのクラセンU−18では初戦のヴェルディには屈したものの、セレッソ大阪、徳島ヴォルティスを撃破し、3チームで並んだ勝ち点6の争いを得失点差で制し、決勝トーナメントに進んだ。その試合で京都サンガの久保と駒井善成(現・浦和レッズ)にゴールを許し敗退している。
 「コンサに入るまではJヴィレッジには行ったことがなかったんです。でもあれだけの施設ですし、全チームが同じところに集まって試合が出来るのっていいですよね」と、Jヴィレッジでアカデミー世代を終えた最後の学年(2010年度卒団)である彼は語ってくれた。現在の立ち位置としては第3GKらしい。岡山の正GKである中林洋次の壁は厚く高いが、持ち前の明るくくじけないキャラクターで頑張ってほしい。

 松原が「オールJ村最後の世代」ならば、一度でも公式大会でJヴィレッジに出場したことがある世代としては、小学6年生で「全日本少年サッカー大会」に出場した菅大輝(現・コンサドーレ札幌U−18=高校3年生世代)が最後になる。小学5年生で出たことのある子も多少はいるだろうが、小学4年生となるとほとんどいないと思われる。したがってこの1、2年で我が国のユース世代はまるっきり「J村ロス」世代に染まってしまうことになる。

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クマー 松原修平>

 先ごろ東京電力や日本サッカー協会などは、相次いでJヴィレッジの将来像についてのステートメントを報道発表した。それによると、2年後の2018年夏には部分的にトレーニング施設としての営業を再開し、2020年に東京で開催される五輪の男女サッカーチームの強化合宿地として利用したいという意向のようである。また、2019年に日本開催が決まっているラグビーW杯の事前合宿地としても代表チームを誘致したい計画を持っているようだ。現実問題として芝生に種を蒔いてスポーツターフとして利用できるまでには最短で1年かかる(←このことはかつて北の方の某市の某練習場で種を蒔いて半年足らずなのに時の市長が芝をはがし…って、いい加減忘れてやろう^^;;)。イネ科の植物である芝生の種まきは(オーバーシードは除いて)春だ。復旧作業をいっそう加速させていけば到達できると思う。非現実的なスケジュールとは言えない。

 大人はそれでいいかもしれない。しかしながら子供は、いや、子を持つ親はどうだろう?「再開しました」で、即Jヴィレッジへ我が子を送り出せるのか?「除染しました」「線量落ちました」「安全です大丈夫です」の言葉だけで、全国の親はそれだけで納得できるのだろうか?
 確かに震災から5年。懸念されていた生態系への深刻な影響は見えていない。報道されていないだけではなく、実際に原発から20キロ圏内を歩いてみて、少なくともその地域までは異常と言える異常は見つからなかった。20キロをわずかに超えた公園ではパークゴルフやサイクリングに勤しむ大人たちの姿すら見えた。今やJヴィレッジと道の駅だけが震災の爪あとを強烈に感じさせている。フレコンパックが積まれていても、そこは「真っ白」な場所に戻ったのだ。歩いてみてわかった。
 それでもレベル7という最悪の「深刻な事態」を起こしてしまった福島第一原発事故。「溶けた燃料が中国まで堕ちていってしまう」という「チャイナ・シンドローム」のスリーマイル島事故(1979年)でさえレベル5だったのだから、その恐ろしさは推し量れる。20キロ圏の淵を見てきた現時点で、と断った上で、放射能事故の深刻な影響は限定された地域に限られてはいるのだろうと推察される。

 加えると、大会を開くには開催場所だけではなく周辺環境が元通りになることも重要なポイントだ。Jヴィレッジ周辺では相当数の宿泊施設が休業や廃業を余儀なくされただろう。春のU−15のプレミアカップ程度の参加チーム、参加者数でJヴィレッジ自前のホテルで収容が可能だと思われる程度しか賄えないのではないか(実際参加チームはすべてJヴィレッジに宿泊していた)。楢葉町は「真っ白」に戻ったとはいえ今年2月の時点で住民登録されているうち5.7%しか戻っていないらしい。これは横浜の穴に戻ってから知った。6月時点ではもっと戻ってきていたのかもしれないが…。

 福島県によると、原発事故前の2009年度には小学生から大学生まで福島県外から延べ約55万人が訪れていたという。事故後の2011年度は7万人に減少。戻りつつあるとはいえ、2014年度でも25万人と半分に満たない。(産経新聞2016/1/16付より)
 大人たちはいつも地域振興やら経済効果やらそろばん優先で将来を語りたがる。
 Jヴィレッジが子供たちの歓声で包まれる日は、果たして戻ってくるのか否か。一日でも早く「震災後」に別れを告げ、「震災前」のあの明るかった日々が相双地域に帰ってくることをただただ願わずにはいられない。


 よし、終わったぞ!


(※)菊地直哉は高校世代は清水商業でした。エスパルスに強化指定選手として登録されておりました。本文はそのままにしてきますが、ここに訂正いたします。

posted by higuma at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ひぐまの日常系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月07日

ひぐまさん、福島を行く(7)

<注・今回のエントリーには写真がたくさん出てまいります。「これは公開してはマズいかな」と思った写真には注釈をつけ、場合によっては削除いたします。コメント欄にご連絡ください。>

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 夏のJヴィレッジの日差しは強かった。「強かった」が適当な表現だと思う。「めっちゃ」とか「鬼」などの強調表現は伴わない。本州の夏特有のジメッとした空気も楢葉では密度が薄かったように記憶している。いや、そりゃ暑かったことは暑かった。早い話が機能不全に陥るような滅茶苦茶な暑さではなかったということだ。
 隣町の広野町に設置されているアメダス(無人地域気象観測システム)によると、ひぐまが直近にJヴィレッジを訪れた2010年8月は最高気温が30℃を超えた日は約半分の16日しかない。同じ月に東京が31日間中30日の30℃超えを記録したのと比較すると、いかにすごしやすい日々だったかが伺える。
 「暑かったことは暑かった」ので、試合の合間に涼を求めて屋内に避難していたセンターハウスが懐かしい。

 結論から先に書くと、今回は意図的にセンターハウスには入っていない。
 これは、僕の旅行の際のいつもの一種悪い癖みたいなものなのだが、「次にまた来よう」という再訪のモチベーション維持のため、第三者的に見て「それやらんで(そこ行かんで)どうするの?」的なネタをひとつふたつは残しておきたいからだった。たとえば沖縄には過去2度行っているが「A&W(エンダー)でルートビア」は楽しんでいない。帯広にも2011年から2014年を除いて毎年行っているが帯広動物園にはまだ行っていない。ばんえい競馬も2度目(2012年)に楽しんだくらいだ。高知の桂浜には3度目にやっと行った。鹿児島の「むじゃき」は次の少年大会の機会にと思い取ってある。

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 それでもこの際なので記憶に残っているセンターハウスを備忘録的に書いておこう。

 センターハウスは4階建て。正面は西側にあたる。「J Village」のロゴとマークが埋め込まれた正面を背にするとそこはロータリーで、反対側(西側)には屋根つきの雨天練習場がある。奥の南側の建物はフィットネスクラブとして利用されていた施設で、2004年には一度だけ「NIKEプレミアカップ」の大会前日に公開の組み合わせ抽選会があり、入場したことがある。
 日本代表選手たちの姿が大きく貼り付けられた自動ドアが開くと視界が広がる。設置されていた大型のモニターTVには本日のピッチ使用状況や、乾式・湿式双方の温度計の計測値などが記されていた。エントランスホールから全面ガラス張りの窓を通して向こう側(ピッチ側)が見渡せる(直接ピッチ面は見えない)。階段を下りるとサッカー小僧のモニュメント(笑・正確には何と名づけられているか知らない)があり、椅子や飲料の自販機も設置されていて、真夏の暑い日などはサポ連中や父兄の方々がグダーっとしている姿があった(笑)。ちなみに、エントランスホールの上部は2階まで吹き抜けになっており、3階には各種集会や指導者・審判らの講習会などで利用されるコンベンションホールがあるらしい。
 エントランスから右に進むと、このセンターハウスが早い話が「ホテル」であることを表す施設がある。フロントだ。Jヴィレッジは一般の人たち(熊含む)も、特にサッカーをやらなくても宿泊は可能だったのだ。残念ながら実際に泊まったことはなかったのだが、フロントではタクシーの呼び出しやら荷物の配送やらをお願いしたことがあった。対面にはそう広くはないロビーがあった。TVが設置されていて、大きなテーブル付きの席はいつも満席だったように思う。

 ロビーの隣りが本来の「アルパインローズ」だった場所で、さらに廊下を奥(南側)に進むと突き当たりで屋外に出る。少しだけリゾート気分的なテーブルや椅子も置かれている中庭のような場所で、周囲はサッカーチームのためのロッカー室やシャワー室にサロンとして用いられている部屋が並んでいた。サロン部屋は大会時には本部として使用されていたように記憶している。
 エントランス正面に話を戻す。左は売店。小さなコンビニエンスストアといった風情で、飲料やお菓子類、氷に文房具などといった品々のほか、adidas製品を中心としたサッカーグッズやJヴィレッジ独自のおみやげも販売されていた。後述するマリーゼのグッズショップも併設されていた。ちなみに…だが、ひぐまはJヴィレッジグッズはタオル類や「FUKUSHIMA」と書かれたTシャツを購入したほか、毎夏小腹をすかせた末にコンソメパンチを買って食べた。Jヴィレッジのユニフォームを着た小さな熊のぬいぐるみは、現在なぜか北の弱小サッカーチームの事務所内にある(えっ?)。
 その売店から弓状に面積を分かつ形でなでしこリーグ1部に属していた東京電力女子サッカー部マリーゼのインショメーションコーナーがあった。ここはかつてちょっとしたフットボールミュージアムだった場所で…記憶が定かではないのだが別料金を取って見せていたのではなかろうか…な、ところだ。マリーゼコーナーは所属選手のポートレートや経歴が書かれたボードが掲示されているほか、試合開催などを告知するポスターやチラシなどが置かれていた。現在なでしこジャパンのコーチをしている大部由美や、かつてなでしこで活躍した丸山桂里奈(現・高槻)、宮本ともみ(現・JFA女子委員)らが在籍していたチームで、adidasのファーストジャージがめっぽうカッコよかった。買っておけばよかった。くそぉ。
 マリーゼコーナーの向かい側にピッチ側に出られる扉があり、外に出ると面積はそう広くはないが板張りのテラスがある。そこを通って埋め木の階段を降りていくとピッチレベルとなる。テラスにはU−15のクラセンのときなどはかき氷屋さんが出店したこともあった。屋外で使用できる仕様のガーデンチェアやテーブルが置かれている。僕は毎夏、ノートパソコンを開いてクラセンの速報をここで送っていた。当時は電波の入りが悪く、送信にはグレ電(グレーの公衆電話)を使用することもあった。

 マリーゼコーナーから屋内を北に向くと右側(ピッチ側)に宿泊客用の階段とエレベーターがあり、さらに奥にカフェテリアの「ハーフタイム」がある。実はここには入ったことがない。大会中は団体さんの利用が主だったからのように思う。2016年6月現在、この「ハーフタイム」のみセンターハウスでは一般の利用が可能らしい。
 ハーフタイムからもっと奥へ探検すると扉がある。その向こうはやはりロッカーとなっている。一般の利用はドアまでで、向こう側はロッカー使用者のみに限られてはいるのだが、たいてい鍵はかかっておらず、ロッカーを過ぎると歩行者デッキにつながっているため、しばしばショートカットに利用させていただいた。ごめんなさい。

 先ほどのエントランスホール前の階段下のスペースからガラス一枚をはさんで外側は人工的に水路?(池というより水辺)が作られていて、その縁のコンクリートに腰掛けて試合を見ることが出来た。雑草が生えるままに生やして適当に整備されていたような斜面を下ればピッチサイドで、その斜面を利用して見ている人もいた。蚊がうるさくてムシペールは必需品だった。前回も書いたが木が生えているため3番ピッチの全部を見ることは出来ない。また、3番以外のピッチは、そこにピッチがあるということぐらいは雰囲気でつかめるのだが、試合の模様を直接見ることは出来ない。日が西に傾くとここは日陰となりたいへんに涼しかった。Jヴィレッジで僕が一番気に入っていた場所だ。

 話の針を現在に戻す。センターハウスの北側の公道上。ここにも警備員さんが立っているが、こちらがピッチ側に入る素振りを見せないので特に声を掛けられることはない。
 きょうは土曜日だというのに作業服を着た人々5〜6人が目の前を通る。原発事故収束にはまだまだ土曜も日曜もないのだろう。

 前述通りセンターハウスの中は見ていない。興味もあったが、わずかに言い知れない恐れが勝った。「また近いうちに来よう」と自分自身に誓ってJヴィレッジを後にすることにした。元から駐車場だった地点にはバスが並んでいる。バスの間を通って木戸駅のほう(北方)に抜ける。国道6号線へ直接出る道は、かつて原発から20キロ以内で避難区域に指定され立ち入りが禁止され、バリケードが組まれていたらしい。そこへは行かず、木戸駅に向かう道を選ぶ。

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 かつて特急が停車した広野駅がJヴィレッジ訪問の形式上の表玄関とすると、ちょっと頑張れば徒歩で到達することが出来る木戸駅は勝手口と言えるだろう。正面の入口までは約1.5キロだ。
 駅構造は広野駅と似ており…と、言うより四ツ倉やかつての内郷、湯本などとほとんど同じで、駅舎から離れた2番線ホームが単線になっている他は跨線橋を含めて広野と大差がない。実は楢葉町役場に近く当面常磐線の終点となっている竜田駅はひと駅隣りで、この駅も同じような作りになっている。おそらく設計図を使い回しにしたのだろう。
 震災前まで木戸駅は「簡易委託駅」という位置づけだった。駅員さんはJR東日本に直接雇用された社員ではなく、JR関連の会社や団体、自治体に所属や契約している人が派遣されてきているという形式だ。聞くところによると木戸駅の駅員さんは旧国鉄OBの男性だったらしい。過去形で書いている理由は駅の再開とともに木戸駅は無人駅となってしまったからである。震災前でも普段は一日に200人も人が利用しない駅だった。クラブユース選手権の際にまとまった人たちが乗り降りしている姿を珍しいものを見るような目で見ていた、あのおじさんは今どうしているのだろうか。
 クラセンU−15の頃になると駅前の広場には櫓が立ち、盆踊り大会が催される。日暮れには木戸を後にしてしまうため実際に見たことはなかったが、このあたりは各町ごとに、各駅ごとに盆踊りが催されている。先述の内郷駅などは「回転櫓盆踊り大会」が開かれていた。その名の通り櫓が回るのである(本当)。真矢も真っ青だ(違う)。櫓の逆方向となる南側には何か着ぶくれ的な予算が付いたのだろう、小ぎれいな便所が立てられた。

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<中間点>

 木戸駅を降りると同行の士たちの大多数は駅に向かって右の踏み切りに向かって南下する。踏み切りは渡らずに左に見て、逆の右方向におよそ90度折れて、線路を背に田んぼの中の道を進む。ひぐまさんたちは駅を降りて櫓を右に、便所を左に見てその間にある道を直進し、住宅地の中を歩く。短い急坂を上り、あとは緩やかな下り坂をのっしのっしと歩くと、前述の同行の士たちが選んだ道に合流する。この道はちょうど直角三角形の長辺にあたる。短辺2つの和より距離は短い。要するに100mも近道をしたということになる。住宅地と言っても住民を見たことはほとんどなく、クルマとすれ違った記憶も残ってはいない。某GンバのS田スタジアムの騒動とはまったく次元が違う話だ。今回はまったく珍しく犬の散歩の老人とすれちがった。
 このあたりは確かに住宅が立ち並んでいる地域ではある。しかし写真でもわかるようにすでに家を捨ててしまった人も多い。広野町より楢葉町の方が現実のコントラストは濃い。
 そこから道なりにひたすら進むと国道6号線に出る。途中を左に曲がる地点が駅とJヴィレッジの中間点。双方から800m弱。あと半分。ただしここからは上り坂となる。次第に傾斜を増し、途中で曲がり角もあって先が見えない。あとどれくらい登ればいいのか見当が付かない。荷物の多い夏は正直辛い。熊はさらに辛い。前足を使っていても辛い。
 「もうダメだ」と行き倒れになりそうな危機を救ってくれたのが丘の頂点から見えるセンターハウスの姿だ。周辺の様子からはまったく異質な巨大な建造物で、そこがJヴィレッジであることが誰にでもわかる。が大きいのですぐに着きそうなくらい近くに見えるのだが、あと少し歩かねばならない。上りきった地点からは平地になっているのでひと頑張りが利く。そうやって我々は毎夏Jヴィレッジの中に抱かれた。

 今回はJヴィレッジから木戸駅に至るコース、つまり説明とは逆の方向から歩いてみる。

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<「道の駅ならは」だった場所。現在は双葉警察署臨時庁舎>

 中間点のT字路をまずは左に折れて道の駅だった建物を目指す。写真の通り立派過ぎる。相当な予算で作られたのだろう。国道6号線沿いに聳え立っているいう表現がピタリの建物だ。クルマで向かうと建物の両側からの道を上り、国道とは逆サイドの駐車場にクルマを止める。徒歩ならば国道側から階段を利用する。
 「道の駅ならは」は営業していた頃は温泉施設やレストランに物産館などが併設されていた。中は田舎の施設らしく派手さはないもののスペースはゆったりと作られており、高台に位置しているため風が吹きぬけ、盛夏でも涼を感じさせた。レストランにはテーブル席だけでなく畳が敷かれた座敷もあって、クラセンの試合の合間には大の字に寝転んでしばしうとうととしたこともある。
 ここも未だ厳しい現実が横たわっている。原発事故以後施設は放置され、その後の2012年10月からは本来は楢葉町の隣りの富岡町にある双葉警察署の臨時庁舎となっているのだ。双葉警察署はイチエフがある大熊町や、同じく帰還困難地域に指定されている浪江町をはじめ、広野町や楢葉町など周辺の町村を管轄地域としている。
 第一原発から富岡町の北辺までは5キロを切るという。昔の人なら平気で歩く距離だ。2016年6月現在も大半が居住制限区域に指定されており、町への住民の帰還は早くても来年の4月になるという。要するにここが「道の駅」の姿を取り戻すのは、どんなに早くてもその後ということになる。
 今はまだ警察署。当然用もない部外者はおとなしく戻る。

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<犬を散歩させている老人とすれ違う。本当にここで地元民と会うのは珍しい>

 先ほどの中間地点のT字路のあたりに写真のような場所があった。黒のフレコンバッグ…いわゆる「除染袋」の中は高い放射線が計測された土砂や草木などだろう。
 震災事故の際に「生態系に強烈な変化が見られるかもしれない」などとツィートした覚えがある。5年が経過し、報道されている限りでは生態系の変化は見られない。そのようなアングラツィートも目にしない。もしかして我々がわからない場所で、わからない状態で変化があるのかもしれないのだが。
 報道というフィルターを通した情報ではわかりようがない事実を、とりあえず楢葉町までやってきて目にした。フレコンバッグはそれはそれとして、積まれていない場所の方が圧倒的に大きく、草木は茂り、鳥のさえずりが聞こえ、真夏だったら蝉の鳴き声(「声」じゃないんだが)が聞こえてきてもおかしくはない。しかし現実に町を捨てた人の棲み家が放置され、店のシャッターは開かず、飲料の自販機は入れたコインが返却口に戻り、駅は無人と化した。事情を知らない人が見れば単純に過疎化が急速に進んだだけと受け取られても仕方がない状況に、福島県楢葉町は置かれていた。

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<未だ「汚染」は終わっていない。「事故」は終わっていない。>

 ただし、鼻血を出している人には出会っていない。自分自身も出血はしていない(確定)。
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2016年07月02日

ひぐまさん、福島を行く(番外)

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 大河シリーズとなってしまいましたが、今回は「J村の現状」はさておいて、ひぐまさん的なJ村での思い出を語りたいと思います。

 Jヴィレッジは公道を挟んで北側の敷地にも天然芝のピッチが作られている。7番から11番がそれだ。見たところ3番などと同様に駐車場となっている。こちらは場所的に大型車も目立つ。
 時折り写真を撮るために足を止め、北側クラブハウスの前、すなわち南を向けばJヴィレッジの「メインストリート」とも言えるセンターハウス東側の道路(私道)が見える場所に立つ。クラセンの際にJヴィレッジに着いて公式プログラムを販売していた臨時テントは概ね毎年3番ピッチへ向かう途中の6番(陸上トラック付き人工芝、クラセンではウォームアップで使用)の前にあった。U−12カテゴリーの全国少年サッカー大会の際にはゼビオなどのスポンサーのテントが賑々しく並んでいた。

 3番ピッチはセンターハウスの正面にあたっており、ハウス内から、はたまた上部にあるテラスから見下ろすことが出来る。テラスからの画像を見たことはないが、非常によく見える場所だったのではなかろうか。数あるピッチの中でもメインピッチと言っていいかもしれない。ただ、ピッチ周囲に木が植えられており、ところどころ視界をさえぎられるのが玉に瑕だ。後にスポンサーの名前を取って「adidas pitch」と名づけられている。
 ひぐまが最初にJ村を訪れコンサドーレ札幌U−18の試合を見たのがここだった。1999年の夏のクラブユース選手権U−18である。
 例年3年生や2年生の一部には前年秋のJユースカップで面通しが済んでおり、こちらががりっがりっと爪を研いでいても奇異な目で見られることはなかったのだが、1年生にとっては生涯初のご対面だ。この「なんだあれは?」な目で興味しんしんにこちらを見つめている中に、一人だけニコニコと笑っている小柄な少年がいた。それが、あんにゃろである。
 札幌の初戦は誰もが認める優勝候補だったジェフ市原(当時)が相手だった。ひぐまのほか、宮岸部長夫妻の2人(+熊一頭)が「何点取られるか…」と、凹られるのを覚悟して、「応援では負けないぞ」とガンガン応援した。案の定ジェフが先に2点を取ったのだが、札幌は後半途中に投入された一年生のあんにゃろが見事に流れを変えた。高校生離れしたスピード溢れる動きとキレッキレのボールタッチでジェフの守備陣を翻弄し、終了間際にまんまと同点に追いついた。試合はそのまま引き分けとなり、出場3回目の新興札幌が育成には定評のあったジェフの勝ち点2を削り取った。かつてのクラセンU−18はグループ1位は決勝トーナメントに文句なく進めたのだが、2位となった場合は勝ち点や得失点差で他のグループと比較し、全グループの上位2つまでしかベスト8に進めないフォーマットになっていた。結局ジェフはこの札幌戦の引き分けが響き、決勝トーナメントへの切符を逸している。このチームには佐藤寿人(現・広島)、勇人(現・千葉)のツインズをはじめ、工藤浩平(現・松本山雅)、中後雅喜(現・東京V)らがおり、この試合はベンチメンバーだったが高木貴弘(現・北海道コンサドーレ旭川U−15コーチ)もいた。優勝候補だったのもうなずける。

 この試合、大会の主催者や協賛スポンサーだったadidas Japanにとってはエポックな試合となったようである。市原−札幌戦はこちらはもちろん、相手のジェフ側ものちに「TOTO評論家」として名を馳せるW田さんがタイコ持参で応援しており、つまり大会史上初めて「双方による応援合戦」が繰り広げられた試合となったのだ。ハーフタイムにはわざわざadidas Japanの人が2名、センターハウスから降りてきたのだ。「うるさいから応援やめてください」と言われるのかと思ったら「いや〜〜、すばらしい応援ですね!」と絶賛され、かえって恐縮した記憶がある。お2人のうち1人は札幌のご担当をされていたらしい(名前は本当に失念しました。すみません)。ひぐまさんのユース応援はこの試合から始まったと言ってもいい。

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<J村と木戸駅の途中にある自販機。不心得者がいるのだろう。防犯カメラ付だ>

 3番は各グループの第一シードのチームが固定して使用している。3番と同じグループに入ったチームが第一シード以外の対戦で使用するのが隣りの4番である。
 4番での思い出は2001年。この年から札幌U−18監督に就任した財前恵一(現・ロアッソ熊本コーチ)の勝負強さが遺憾なく発揮され、最終的に準優勝した年の初戦だった。初出場の富山県のGENIOS.FCとの試合。なんとわざわざバスを借り切って常磐道を飛ばしてやってきた(本当)大量のサポーターの前で11−1と圧勝する。3年生になったあんにゃろは特別な存在になっていた。オフサイドを取られるたびに副審にガンを飛ばし(本当)、それでも前半だけでスカッとハットトリックを記録すると後半はベンチに退き、自分たちの試合を見ないでウラの3番の京都サンガの試合をのんびりと見ていた。札幌サポは全員腹を抱えて大爆笑。中には鼻血を流しながら転げまわり熱狂していた者もいる(本当)。
 ちなみにそのバスに乗ってやってきた中にあきっくさんがいる。彼女はこの試合で右サイドを蹂躙していたS木T樹(現・札幌強化部)や石郷裕二(→札幌大学)らに魅了されたらしい(推定)。ビョーキ(確定)。
 4番での思い出の試合をもうひとつ。2004年のU−15決勝トーナメント1回戦。ヴィッセル神戸との一戦は激戦となり、1−2とリードされた後半アディショナルタイム。ハーフウェイライン付近で相手ボールをカットしたセンターバック熊澤覚(現・京都に在住)がそのままドリブルで突っかける。「とつげきぃぃーーーー!」というひぐまの雄たけびを背に重戦車のごとく相手選手を一人交わし二人交わし、ついに相手ゴール前左サイドへ進撃。相手の誰もが「最後はクロス」と読んでいたようだが、熊澤はシュートを放ちゴールネットを揺らす。土壇場の土壇場で同点に追いついた札幌が延長後半に能登剛(→エスポラーダ北海道)がやはり長い距離をドリブルで抜き去りVゴールを決めた。熊澤には後に会った際に「あのゴール、憶えています。ひぐまさん、何か叫んでましたよね(笑)」と語っていた。北海道コンサドーレ札幌20年の全カテゴリーを通じても歴史に残る、語り継ぎたい素晴らしい試合だった。

 5番ピッチは出場チームが少なかったクラセンU−18では通常使用されていない。U−15やU−12では使われているが、U−12では北海道から単独編成のチームとしては初出場となった2006年全日本少年サッカー大会が記憶に残る。最初に見た試合で額縁に入れて飾っておきたいくらいの完璧な素晴らしいゲームを見せてくれたのである。
 試合前は「試合になるかどうか」と弱気だった浅沼達也監督(現在も札幌U−12監督)だが、初戦・宮城県代表のA.Cジュニオールを相手に言葉では表せない完璧ともいえる試合(特に前半)を見せた。目を見張るチーム一体となった動きでジュニオールをまさに圧倒し、さっさと稲田浩平(→札幌大)のハットトリックで試合を決めてしまった。大会を視察に訪れていた川淵三郎キャプテン(当時)などはすべてのピッチをまんべんなく見る予定を曲げて、前半まるまる札幌の試合に見とれていた。
 この試合で札幌U−12は稲田の3点と中原彰吾(現・札幌)の1点を記録したのだが、2列目から自在に前線へパスを供給していた10番が目を引いた。試合後「お疲れ様。よかったね」と声を掛けると恥ずかしげに会釈してくれた寡黙な選手。それが深井一希(現・札幌)だった。堀米悠斗も神田夢実も前寛之(いずれも現・札幌)もいた。札幌の黄金世代が全国デビューを飾った記念すべき一戦だったのである。
 5番ピッチで戦った記録ではないのだが2010年の大会に出場した菅大輝(現・札幌U−18=トップチーム帯同)のこともちょっとだけ書いておく。
 初戦のニカホFC(秋田県)戦でチームの完成度の高さに驚くとともに、とにかく彼の動きに目を奪われた。ボールを持つと早いタイミングで次のプレーに移る。計5試合見たのだが、距離のあるシュートを持ち味とし、生粋の左利きではあるが頭や右足でのゴールも決め、それ以上に味方をよく動かしていた。「これは…札幌の宝物になる」と、ひぐまはもちろん彼を見た他の誰もがそう確信した。その後の経過は皆さんご承知の通り。なので多くを語るのはやめておこう。
 なお全日本少年サッカー大会は翌年から8人制での大会に移行し、開催地も裾野市(時の栖サッカー場)に移った。昨年からは開催時期も冬となって鹿児島市で催されている。

 長くなった。ちょっとはしょろう(笑)。

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 いろいろな呼ばれ方もされているようだが、通称オレ的には「谷底」と呼んでいる1番ピッチ。地形を利用したためか他のピッチと比べ低い位置にある。そのため多くの大会時にはピッチサイドからの応援は叶わず、ピッチを見下ろす片側のゴール裏に両チームのサポーター(ご家族)が集まって応援することになる。
 1番での思い出は数多い。横野純貴(現・タイ2部コンケーンFC)のハットトリック(2007年クラセンU−18)は彼のゴールへの執念と鍛え上げてきたボディバランスの賜物として鮮明に記憶に残っている。が、後年彼は「一点目はオウンゴールでしたね(苦笑)」と正直に白状している(笑)。右(相手の左)サイドでエンドいっぱいのボールに先に触れたのは相手の選手で、際どいボールがゴールラインを割った。それは我々の目の前だったのでよく見えた。「でもまぁとりあえず喜んでおけってことで」派手に喜びを露わにしていた。その後の正真正銘のゴールが見事だった。松本怜大(現・町田)からのクロスをゴール前で受けると優れた身のこなしで相手をかわし、左足でゲットした。横野は後半にもヘッドのゴールを突き刺して難敵・東京を降した。
 U−15は2010年。鹿島を相手に華麗かつセクシーなパスサッカーで逆転勝利を挙げた。この試合がひぐまがJヴィレッジで見た最後の試合となった。季節はずれの肌寒さだったことを憶えている。

 全カテゴリーを合わせると試合数そのものでは最も多かったのではないかと思う2番ピッチ。こちらも応援場所には苦労した。だいたいは東側(ベンチとは逆方向)で応援したものだが、大会によってはベンチのすぐ脇で声援を送ることも可能だった。
 2009年クラセンU−18。扇原貴宏(C大阪→名古屋)や永井龍(現・長崎)らを擁し、この年関西最強と謳われていたセレッソ大阪を工藤光輝(現・グルージャ盛岡)のループシュートと近藤勝成(故人)の鮮やかなカウンターで沈めた。
 2000年春の「ナイキ・プレミアカップ」では当時の大会規定が「U−14」だったため、中学生になったばかりの選手たちもJヴィレッジにやってきた。小さな1年生の中に背番号14を付けた選手がいた。西大伍(現・鹿島)である。後に本人は「入ったばかりですぐ遠征でしたね。いやぁ…場所どこにあるかもわからなかったです」と答えている。彼は2試合目(注・当時はグループラウンドは3チームで争った)の二本松一中戦に出場した。それが第2ピッチだった。相手に3年生ではあったが早生まれ(2月生まれ)の萬代宏樹(現・水戸)がいたのだが「えっ?そうでしたか?憶えていません」らしい。この大会は得失点差わずか1で準決勝への道を閉ざされている。

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<J村から木戸駅へ続く道。アスファルトが割れ、草が顔を覗かせていた>

 離れ島的な7番ピッチでは2009年のU−15の千里丘FC戦を挙げよう。前半、ナイスセーブ!と思われたGK福永浩哉(→道教大岩見沢)が一発赤紙を食い、途中出場してきた阿波加俊太(現・札幌)がPKは止めたもののコーナーキックからのプレーであっさりと失点し苦境に立った。一人少ない状況の中、ゲームを支配した「黄金世代」の札幌が残り10分を切ってから千里丘の守備陣を食い破り、下田康太(→国士舘大)と中原彰吾のゴールでひっくり返した。得点者には記録されていないが深井一希が一人ボランチで中盤に君臨し、やはり只者ではないと思い知らされたゲームだった。彼はU−12ではゲームメーカーとして、U−15ではボランチとして出場している。
 この大会では札幌U−15は全国の育成担当者から極めて高い評価を受け「優勝候補」と言われていた。グループ3戦目で広島U−15を相手シュート1本に抑えて完勝するなど順調にコマを進めたのだが、準々決勝でACNジュビロ沼津に足元をすくわれてしまう。大会が帯広開催となった2011年夏、偶然にも大会を視察に帯広入りしていたACNのスタッフの方と空港へ向かうバスで一緒になったのだが「あのときは運がよかっただけです。攻められっぱなしで本当に札幌さんは強かったです。こっちは帰る支度をしてJヴィレッジまで行っていたんですから。勝ったら勝ったで宿の手配とかいろいろ大変でした(笑)」とおっしゃっていた。得点を決めたのが後に清水ユースに進み、プロ入り後に藤枝にレンタル移籍した加賀美翔だった。こちらも「ここまできたら札幌」と信じていたので、一時福島から穴へ戻ってきていた。準決勝と決勝には行くつもりでいたのだが、「スーパーひたち」のチケットがパーになった記憶がある。

 8番では前述の菅の代やその前の代でも少年大会で何試合か行っている。9番以降はU−12で試合はあったかもしれないのだが記憶には残っていない。

 名前が上がらなかった中からも多数の記憶に残る選手が思い出に残るプレーをした。昨年の「ユース・レジェンドマッチ」で得点を挙げた伝庄優(→長崎)、彼にラストパスを通した遠国信也(→佐川急便北海道)、驚愕の左足・古田寛幸(現・金沢)、U−15のみだったがハーフナー・マイク(現・デン・ハーグ)、西と同期で鋭いクロスが持ち味だった藤田征也(現・湘南)などなど…。


 このへんで次回からまた元に戻ります。

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2016年06月29日

ひぐまさん、福島を行く(6)

<注・今回のエントリーには写真がたくさん出てまいります。「これは公開してはマズいかな」と思った写真には注釈をつけ、場合によっては削除いたします。コメント欄にご連絡ください。>

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 「広野町サッカー場」の階段を降り、しばらく北へ歩くとJヴィレッジの象徴的な形をしたセンターハウスが見える。
 右手に常磐線の線路が見下ろせる。四ツ倉駅を過ぎると基本的には単線となる常磐線だが、広野駅と木戸駅の間は複線だ。視線を左に転じるとコンクリート造の集合住宅らしき建物がある。野山に囲まれた周辺の状況に不釣り合いな見てくれはきれいな建物はJFAアカデミー福島の女子寮だったらしい。くどいようだがアカデミーは御殿場に移転し活動を続けている。女子寮も時の栖のブルーベリーロッジの一角を借りているという。
 元・女子寮が現在どのように使用されているのか、あるいはされていないのかはわからない。ただ、敷地の一角に放射線量計のメーターと、使われなくなった自転車置き場があった。自転車は恐らく生徒たちが中学や高校へ通う足として使われていたものだろう。メーターの数値はまったく問題のないものだった。

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<アカデミーの女子寮(たぶん)の光景>

 そこから視線を右に送って見ると、いつの間にかJヴィレッジに着いていた。行ったことのある人は記憶を掘り起こして欲しい。センターハウスからは遠い、東の端の(おそらく)町道と面しているところで西を向いて足を止めた。Jヴィレッジは元々門などはなく、壁などで閉鎖された空間ではない。普段住んでいる人が非常に少ない地域だったからだろうが、それでも比較的近所に住んでいる人が犬の散歩などに利用していた。利用しやすいように開かれた空間、開かれた施設だった。
 2番ピッチと5番ピッチの間の道を突きあたった場所。緑のピッチが並んでいる姿を、その間をバッグを担いだ若き選手たちが行きかう姿を、多くの父兄やサポーターらが歓談しながら歩いている姿を思い出してみた。本当にしばし固まってしまった。6年ぶりのJヴィレッジ。6年前まで12年間通い続けてきたJヴィレッジ。一見して何も変わっていない姿がそこにあった。6年分トシを取ってしまったのは自分の方だけだった。人間のトシで言えば50代になっている。少し、ほんの少しだけこみあげてくるものがあった。6年前はもう二度と来られないと思っていた場所に、とにもかくにもやってきたのだ。

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<左に2番ピッチ、その向こうに「谷底」の1番。右側は5〜3番ピッチ>

 通りがかったクルマを呼び止め聞いてみた。答えはわかっているのだが念のため。やはり作業着を着たおじさんが助手席から顔を出す。
 「ここからは入れません」
 そりゃそうだろう。いま、僕の前にあるピッチに向かう道は私道だ。Jヴィレッジの、引いては東京電力が管理している施設内だからだ。しかし両足を着けている場所はというと(おそらく)町道なのだ。「おそらく」と注釈を付けたが、早い話が公道だ。
 「ここを通って国道の方には出られますよ」
 つまりこうだ。直接2番や1番、あるいは3、4番ピッチを見られる道は一般人(熊含む)は通行できないが、5番ピッチの裏側(東側)の公道は公道だから普通に通行可。5番の北側に陸上トラック付設で、クラセンの際には各チームがウォームアップに使用した人工芝の6番ピッチがあり、その外側を東に折れて北側の7〜11番ピッチとの間の道を通って、駐車場を右に、センターハウスを左に見て直進し、右側にフットサルか何かのための人工芝ピッチを見ながら坂を下り、国道6号線に出る。このルートならば問題なく通れるというわけだ。ごく当たり前の話だ。

 そしてこの時間(12時半頃)ならばセンターハウス内のレストラン「ハーフタイム」に入れる。「ハーフタイム」は「アルパインローズ」に先立って、震災のあった年の9月には作業員への食事提供のために再オープンしたらしい。実際のところ「ハーフタイムを覗いてこようか…」と考えながら5番ピッチの外側を通って北へ向かって歩いた。

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<5番ピッチの裏側を通る>

 ピッチは今現在どうなっているのかというと、これも報道で知ってはいた。緑萌えていた天然芝は剥がされ、ピッチによっては鉄板が敷きつめられ、駐車場として利用されている。いくつか大きなテントも張られていた。多くの作業員が宿舎から乗用車で乗りつけ、ここでバスに乗り換えてイチエフ(福島第一原発)に向かう。復興に向けた東京電力福島本社としての機能は今年3月で終え、現在では約20人が常駐しているに留まっている。福島本社は第二原発を越えて第一原発から10km圏内の富岡町に移った。10km圏内は現在も住民は全員避難の区域に指定されている。Jヴィレッジは「中継基地」としての利用に変わっていた。この報道がなされたのは今年の3月。僕が「Jヴィレッジに行こう」と思い立った直接の理由がここだ。一時期のものものしさは消え、復興に向けての槌音が響く前に「一度、ナマで見てみよう」と思ったのだ。思ったら行動。即、行く(断定)。

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<ここは元々は人工芝の6番ピッチだった>

 Jヴィレッジのすぐ側を通っているというのに、選手たちの歓声はまったく聞こえない。ボールを蹴る音も聞こえない。それどころかサッカーボール自体まったく見ていない。
 サッカーを行ううえで最低限これが必要というものは「人」と「場所」と「ボール」だけだ。「人」が…必ずしも両チーム11人である必要はない…がいて、それだけの人数が走り回れる場所があって、走り回る人々の中に「ボール」がある。それだけで足りる競技なのだ。タッチラインもゴール枠も審判もいらない。しかし2016年6月のJヴィレッジにはそのすべてがない。「人」は原発対応の作業員がいるだけで、とてもサッカーをやる雰囲気は感じさせない。「場所」も前述の通りむき出しの土や鉄板の上に夥しい数のクルマが止まっている。そしてボールもない。

 2020年の(やらんでもええのに…)東京オリンピックに向けてJヴィレッジを復興させ、日本五輪代表チームの合宿地として活用する。こんな構想を今年2月に日本サッカー協会は表明したらしい。それ以前に2019年に日本で行われる予定のラグビーのワールドカップの合宿をも誘致しようという声もあるらしい。仮に2019年に使用したいのであれば、その1年前までには芝生の整備に着手しなければならない。観賞用の芝生ではない競技で用いる天然芝というのは根がしっかりと張られるまでにやたら時間がかかる。種を蒔いてたった数ヶ月で使用すると市長さんでも芝がめくれるほどダメージがあるのだ甘くはないのだよ北の方の弱小サッカークラブさん(確定)。それはともかく2018年には施設全体の7割を復旧させる構想もあると聞く。
 6年間は確かに長かった。今後その3分の1の2年前後の時間で、果たしてJヴィレッジが戻ってきてくれるのだろうか? 震災を、いや、原発事故を早くに忘れさせたいという思惑が少なからず存在しているのではなかろうか、その企てに僕はリアリティをまったく感じるわけにはいかなかった。日差しは変わらず強く、熱い。

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<北側の10番ピッチと思しき場所。手前側は元々駐車場だった>

 次回はひぐま的J村の思い出シリーズいきます。だから読まなくても結構です(笑)。

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2016年06月27日

ひぐまさん、福島を行く(5)

<注・今回のエントリーには写真がたくさん出てまいります。「これは公開してはマズいかな」と思った写真には注釈をつけ、場合によっては削除いたします。コメント欄にご連絡ください。>

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<「アルパインローズ」店内>

 「アルパインローズ」の開店時刻まで自然の中でさらに時間を贅沢に使う。高い空を白い雲が横切っていく。朝が早かったせいか空腹気味のくせに少々眠気も催してくる。

 11時半になり、半分眠りながら二ツ沼公園内の「ふるさと広野館」というクラブハウス的な建物に入り2階に上がる。出迎えてくれたのは少し前のスポーツ新聞の紙面でこしらえたトートバッグ(これはよくできていた!)。見出しは「本田」「香川」など、やはりサッカー日本代表のものが多い。さすがアルパインローズ。ここが西芳照さんの経営するレストランだ。すっかり目が醒めた。
 そもそもこのお店はJヴィレッジの中にあった。原発事故で事故対応の拠点として施設が接収され閉店を余儀なくされたわけだが、震災のあった2011年の11月には移転再オープンにこぎつけている。驚くべきスピードではある。そのあたりの詳しい背景についてはここをご覧いただきたい。
 https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver21/

 女性店員さんが「どうぞ〜」と明るく熊を店内に迎え入れてくれる。店員さんの明るさに負けないまばゆい光が入る店内はテーブル席も相当に多い。奥には団体さんでも入れるくらいのスペースが設けられている。以前も食堂が入っていたらしい2階をまるまる使ったお店はなかなかの大きさだった。
 入口には日本代表のサイン入りのレプリカユニフォームが展示されている。左がガチャピン(登録名・遠藤保仁=G大阪)、右が今野(G大阪)。両雄にはさまれ地元福島ユナイテッドのレプリカもあり、こちらは背番号がないため誰のものかはわからない。日本代表選手たちのサインには「西さんへ」と記されている(写真参照=拡大できます)。
 厨房と客席を隔てる壁面には大型のTVが置かれている。隣りには福島ユナイテッドの旗を真ん中に、Jヴィレッジを訪れたであろうクラブのレプリカや、さまざまなサッカーグッズが飾られていた。その中には現在は四国地方で話題のあの「めがねのおじさん」の名前もあった。

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<「アルパインローズ」店内>

 肝心のメニューであるが、基本は洋食というカテゴリーに入るものがほとんどだ。が、和のテイストが盛られた品物も並んでいる。やはりここに来たからにはすぐ隣町の楢葉名物ともいえる「すいとん」を食べてみたい。決定。お昼にひぐまの胃袋に落ちていくメニューは「刺身すいとん定食」。税込み千円ちょうど。
 うまい(断定)。海の幸である刺身(川の幸である鮭もある!)と、ごぼう、にんじん、しいたけなど里と山の幸がたっぷり具に入っているすいとん。しかもすいとんの出汁は舌を刺激しない。恐らく化学調味料が一切含まれていないせいだ。ガツガツと両前足を駆使して掻き入れる。ごくごくと胃袋の底に落ちていく。たまらない。変な味が付いていない、食材の旨さを十二分に引き出した一品である(断定)。

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<刺身とすいとん定食。広野町なので「マミー」は付かないのかな?美味でした。>

 ここで失敗したことを2つ白状しなければならない。
 ひとつは肝心の西さんがお忙しそうにされていたので声をかけることができなかったこと。団体さんの予約でも入っていたのだろうか、世話しなく店内を回っておられたのだ。正直に言うとこの時点では「また来るからいいや」と思っていた。問題なくJヴィレッジスタジアムの前までは来られたのである。住民の半分が未帰還とはいえ、広野町の「真っ白」な姿を見てきたのである。年に1〜2回くらいは頼まれなくてもいわきまでは来ているのだ。また来られるさ、きっと、と、そう思っていたし、今でもそう思っている(たぶん早ければ夏の終わり)。と、いうことで次回ご挨拶させていただきます(予定)。
 もうひとつは前日(10日)にここに来ていれば現役日本代表の清武弘嗣選手に会えたかもしれないということである。彼はいわゆる海外組であり、この時期はオフ・シーズンにあたっていた。この日はそれまで在籍していたドイツのハノーファーから新シーズンにあたりスペインのセビージャへの移籍が公式発表された日だった。彼は前日にいわき入りをし、足を伸ばして広野町までやってきた。この日=11日はいわき市内でサッカー教室に参加されたそうだ。詳細は以下のURLで。
 http://iwaki-pit.team-smile.org/news/201606/784.html
 http://www.alpinerose.jp/blog/%E6%B8%85%E6%AD%A6%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81/

 …別にひぐまさんわ日本代表にあまり興味がない(えっ?)のだが、せっかく遠いところを来てくれるというのであればそりゃ会いたい。別に当事者ではないがいわきに縁ある熊として「来てくれてありがとう」と一言言いたかった。

 実を言うとひぐまさんわ2年前の夏に一度死にかけている(本当)。以来「塩分の取りすぎに注意してください」という医者の言葉を守り、この2年インスタントラーメンやスナック菓子をほとんど食べていない(本当)のだが、すいとんは汁まで完食し、死に急ぐように店を出る。空は依然として青々と夏の表情を見せている。

 二ツ沼公園を出る。普通なら左に向かって国道6号に出て、右に曲がってJヴィレッジの正面入り口を目指すのだが、今回は海側を回ってみようと思う。
 進路を東に300mほど歩くと十字路に当たる。その左前方に一見して「屋内サッカー練習場」と理解できる建物の屋根がみつかる。道からはある程度伐採された雑草が生い茂る法面(のりめん)となっており 道路上からは一段高いところにあるピッチ面を覗くことはできない。それでも一部草木が刈られた場所を登り、施設内を覗くことができる。屋内練習場の向こう(北)側には全面サイズの人工芝ピッチがある。屋内・屋外ともにピッチ面はきれいに整備されている。ゴミや増して瓦礫などはまったく見当たらない。今すぐにでもスパイクを履いた選手たちが駆け回れそうな見事なピッチだ。ここが震災前まではアカデミーの練習場だったらしい。ここは「広野町サッカー場」。Jヴィレッジとは違う運営なのだが、目と鼻の先に作られていることもあり、デザインやイメージ的には一体の施設と言い切ってしまっていいかもしれない。

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<広野町サッカー場の屋内ピッチ…の屋根>

 サッカー場を右に見てわずかに北進するとクラブハウスと思しき建物がある。入口までは道から階段を四つ足を使って登っていく。鉄筋コンクリート作りの比較的新しい建物だ。壁面には「JFAアカデミー」のエンブレムが掲げられている。人がいそうな気配はないので侵入してもよかったのかもしれないが、ここでおとなしく引き返すことにする。敷地内には一切入っていない。想像だが、ここはアカデミーの事務所だった場所ではなかろうか。

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 JFAアカデミー福島は2006年にフランスの「クレールフォンテーヌ国立研究所」をお手本に創設されたわが国におけるサッカーでのエリート教育を図る場だ。男女とも全国から受験生を募集し、初年度の男子は17人の合格者に対し455人が受験を希望して26.8倍という高倍率を記録した(翌年は57倍だったらしい)。全寮制かつ中高一貫で、学校教育の場は近隣の中学校と福島県立富岡高校と協力関係を結んでいた。サッカーだけではなくさまざまな人間教育のプログラムが組まれており、将来の社会のリーダーとなり得る人材を育成しようというプロジェクトだ。
 福島第一原発の事故により、男女とも2011年度から静岡県の御殿場市に拠点を移している。親元を離れて暮らす子供たちも精神的に辛かっただろうが、親御さんたちも本当に心細る思いだっただろう。御殿場での生活も今年で6年目。つまり中学校入学を機にアカデミーを選んだ世代は公式には一度も福島の地を踏まず今年度が卒業の年ということになる。
 設立当初はけっこう優秀な人材が集まってきた。代表格が男子では幸野志有人(現・セクシー東京→レノファ山口)で、女子では山根恵里奈や菅澤優衣香(両名とも現・ジェフ千葉レディース)といったところだろうか。しかし近年は避難生活の長期化とともに年々タレント的にも先細りになってきている。男子U−18年代の最高峰リーグのプレミアリーグEASTにも2013年度から参加していたのだが、昨年は10チーム中の最下位となり今年はプリンスリーグ東海に参加している。東海地区に参加しているがチーム名は「福島」のままだ。ホットニュースとして群馬開催の日本クラブユース選手権U−18への出場を決めたらしい(皆さん昨年はデマを飛ばして本当に本当にすみませんでした。だってぇ…M野さんがムニャムニャ…)。

 正直に言ってこのJFAの取り組みに対し、僕はあまり関心がなかった。その理由を説明していると本当に長くなってしまう。近年の日本代表チームの選手たちは品質的に規格化というか画一化されており、真の「ジーニアス」(天才)はもはや生まれてこないのではと危惧しているということもある。ならばと、無理やりにでも「秀才」の栽培に熱を上げる手段に出たのであるが、成果はいまひとつどころかいまみっつくらい上がっていない。その理由を震災のせいにあてはめるのは違うと感じている。
 言いたいことは山ほどあるがこのへんにしておこう。

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<広野町サッカー場…の、覗き見写真>

 橋を渡り楢葉町に入る。原発まで20km。いよいよJヴィレッジ本体に正面ではなく意表をついて(推定)裏口から飛び込んでいくことにする。

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 本当に長くてすみません(断定)。
posted by higuma at 15:01| Comment(0) | TrackBack(0) | ひぐまの日常系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする