2017年12月30日

決勝戦の風景(中編)

 別にこんなコラムを書いていたからというわけではないと思うのだが、つい先日コンサドーレU−12がグループ通算12回目の全国大会の決勝に進出してしまった。おったまげーしょんである。
 こちらもまったく予想をしていない事態ではあったが、前日あたりからTwitterで大騒ぎしていたので、テレビ中継を楽しまれた方も少なくはないだろう。おっといけない。大会名は「全日本少年サッカー大会」、場所は鹿児島で開催されていた。
 この大会の歴史は相当古く、今年で41回目の開催となる。その昔はよみうりランドで永く開催されており、震災前の2010年まではJヴィレッジと西が丘で行われていた。最後のJ村開催となった2010年には菅大輝が出場しており、その4年前には後のドリームチームの主力となる堀米悠斗(現:アルビレックス新潟)、神田夢実(現:愛媛FC)、中原彰吾(現:ガンバ大阪→来期はヴィファーレン長崎との報道あり)、深井一希さん、下級生には前寛之(来期は水戸ホーリーホック)らが出場していた。このときの話は面倒なのでこのへんでも見てくんちぇ
 翌2011年から東日本大震災の影響で開催地が御殿場(裾野市)となり、大会形式も8人制に変更された。そう、昔はあの狭いピッチに11人出ていたのよ。その後2015年から鹿児島に移り、開催時期も夏休みから年末へとなったわけである。

 どうだ。ふだんU−12世代にぜんぜん関心のないルーキー諸君。本物のビョーキの知識を舐めたらいかんぜよ。

 昨年はひぐまさんも当然のように鹿児島まで飛んだ。そのせいで風邪をこじらせた(泣)。今年の大会はどうも予定が立たず来鹿を見送っていた。
 1次ラウンドはJリーグ下部のチームとは同組にならず、その意味では恵まれていたと思う。1次を突破してもどうせベスト16の柏レイソル戦で涙を呑むであろうと勝手に考えていた。ところが開始早々の一点を守りきり勝ってしまう。続く準々決勝のリオペードラ加賀相手にはお祭り状態で大勝し、北海道勢としては1999、2000年の札幌FC、2003年の帯広FC以来通算4回目の同大会ベスト4を決めてしまった。なおこの3チームの「FC」とは早い話が地域選抜で作られたチームであり、単独のチームとしては初めてということになる(2000年の札幌FCは最終的に準優勝)。
 話を戻すがこの世代は関東のチームには本当に弱い。理由としては、札幌U−12はとにかく「勝てばいい」というようなチーム作りや采配を取っていないということもあると考えられるのであるが、おそらく現場の浅沼達也監督などは「場数が違いますから」と口にするに違いない。

 そのへんの話はいい加減端に置いておかないとコラムが進まないんだが、行きがけの駄賃でもうひとつだけ。

 結局大宮をも降し決勝に進出した札幌はセレッソ大阪に逆転負けを喫した。記念すべき(?)10度目の準優勝である。試合をテレビで見た人からは「身体も大きい選手がいて将来楽しみだ」という声も聞かれていた。

 ひぐまは単純にそうは思っていない。いや、楽しみは楽しみなのだが、そこまでシロートじみた見方はしていない。

 12歳時点で身長160cm台というのは明らかに日本の小学6年生の平均を超えたものであり(注:150cm未満から約8〜9cm伸びるのが統計的なデータ)、成長曲線が世間一般に比べて早すぎるということに他ならない。日本の家庭における食生活の西洋化が本格化してすでに久しいが、時代も平成となって第3世代、第4世代と進むと、単なる遺伝とは異なる突然変異じみた成長が時折り見られるようになってきた。そういう選手が2人、3人と集まったチームが勝つのは割り合い簡単だ。その選手の高さに合わせてボールを集めればいいのだ。あるいは逆に長身選手を後ろに置いておけば相手のハイボールを全部はじき返し攻め手を数割奪うことができる。混戦の中でも長い足を伸ばせばシュートブロックすることも容易だ。

 そういうサッカーは、その選手にとって、その選手が属したチームにとって幸福なのだろうか?

 まず選手。長身選手は肩で当たるだけで体格に劣る相手選手を簡単にふっ飛ばせる。それで正しい1対1のテクニックが身につくのだろうか? テクニックを身につけていたとしても試合で始末の悪い主審に当たってしまうと正当なチャージであるにもかかわらず全部ファールを取られることさえある。競技規則には「過剰な力で」と記してあるだけで、反則かそうでないかは主審の裁量に任されているのだ。
 チームにとっては長身選手がいる間はそれでいいだろう。しかし当たり前だがいつかは卒業してしまうものだ。残された選手たちはどういうサッカーを指向すればよいと言うのか? 個人の力で個人戦術を磨くことを怠り、また上背に恵まれた選手の登場を待つしかないのだろうか?
 これはU−12からU−16あたりのカテゴリーを中心として、若年層を受け持っている全国の指導者やチーム全体に通じる問題であり、解決策を見ない永遠の課題と言える。U−18あたりになれば概ね身体に関する答えは出るし、U−10あたりならばそれほど気にすることはない話だ。そのため来年度から本格的にコンサドーレアカデミーでも選手個々の身体面や精神面の成長にあわせた育成にシフトしていくことになった。いや、すでに数年前から動き始めており、一層アクセルを踏んで展開していこうということで…いや、これは公式発表を待つしかないのだが、ついでに言えば女子に関してももっと書きたい。けど、なんとか年内にこの原稿をアップさせたいのでこのへんにする。いいよね?ジローさん(^^;;
 とにかく、U−12大会で大きな選手を見ることを真のビョーキ連中はさほど楽しみとは捉えていない。むしろやたらちっこいのにボール扱いが上手い選手に惹かれる。最高の尊敬を込めて「ヘンタイ」と呼んで称える。あー、こんな話もどうでもいい。「なぜ札幌アカデミーは決勝でなかなか勝てないのでしょうか?」な質問の答えも用意してあるのだがここでは書かない。早いトコ2003年決勝の話に行け。ホレ!(あ、トリさん優勝おめでとう)



7.高円宮杯全日本ユース(U−15)サッカー選手権(2003年)


 この年からJFAも考えを改め(?)出場チームは16のままだったものの、グループリーグ+決勝トーナメントというW杯同様のスタイルに変更された。「支店」を含めJクラブだらけとなったグループラウンドを堂々1位で突破し、準々決勝では岡本賢明(今年限りでロアッソ熊本で現役引退)がいたルーテル学院と対戦。「九州無敵」の評判通り強いルーテル・岡本に前半、混戦から先制シュートを決められたものの冷静かつ熱い試合運びで鮮やかに逆転。準決勝の千葉代表なのはなFC戦も相手GKが途中からフィールド選手となる(注:代わりのGKが入った)奇策を見せたが札幌は慌てず3−1で一蹴。2年連続で最終決戦へと駒を進めた。場所は国立。なおこの年は宮杯が単独開催された。やればできるじゃねぇか。
 相手はヴェルディ。あの森本貴幸(現:川崎フロンターレ)がいた。その森本は試合途中で負傷退場してしまったが、飛車落ちでもさすがヴェルディという堅さで札幌の攻撃を無得点に押さえ込み、延長の末に札幌は散った。
 喜びに沸くヴェルディイレブンを見ている指導者たちの中に冨樫剛一の姿を見つけた。そもそも彼はヴェルディのユース出身であり、前年の大会では札幌U−15のコーチとしてベンチにいた。スタンドからは「とがし〜〜!いつ札幌に帰ってくるんだぁ!?」「お前だけ優勝かぁ〜」という声が飛んでいた。…大半はオレだったんだが…(笑)。その後の彼はヴェルディアカデミーの指導者として順調な歩みを見せている。後に冨樫くんは「僕が教えていた選手も多数いましたね」と語っている。くそぅ。1人だけ日本一か。
 ついでに森本にも「また上でやろうなーっ!(対戦)」と声をかけ、森本くんもあの坊主頭で「ハイッ!」と元気よく爽やかに答えてくれたのだが、オレが言ったのは「U−18で」という意味であり、肝心の彼はその3ヵ月後にはトップ登録されてしまった。ぎゃふん(昭和のギャグ)。
 一方の札幌は2年連続の惜敗。しかしこの2年間の主力の中からU−18に昇格し、2年後に高円宮杯決勝を戦う選手が多数現れていた。そのときの相手もまたヴェルディだった。そしてまたも負けてしまったことは前回書いたとおり。


○高円宮杯全日本ユース選手権(U−15)
  2003年 札幌 0−1(延長) ヴェルディ



8.高円宮杯全日本ユース(U−15)サッカー選手権(2009年)


 他の年はともかく、この年の札幌の決勝進出は予想の範囲内にあった。前述の2006年少年大会の主力が中3となり、夏のクラブユース選手権でも優勝候補に挙げられていたくらいだ。しかしクラセンでは準々決勝でアスルクラロ沼津に足元をすくわれてしまう。油断と言おうか何と言おうか。数年後「あの試合はたぶん負けると思い、帰り支度をしていました」とアスルクラロのスタッフさんが語っているほど総合力で劣っている面はなかったはずだが、後に清水エスパルスのユースでも主軸となる加賀見翔の2発に泣いた。
 全32チームによる1次ラウンドを行い、首位の8チームのみがトーナメント戦に臨んだ。準決勝のヴェルディ戦は東京・西が丘での対戦。この頃には典型的なエレベーターチームに成り下がっていたトップチームの鬱憤を晴らそうとしたのか(だとしたら著しく動機が不純だ!)サポーターも数多く詰め掛けた中、3−1と快勝し国立での決勝に向かった。また天皇杯の前座試合だった。
 相手はヴィッセル神戸。この2009年以前から関西の強豪として鳴らしてはいたが、ウチとの対戦では激戦の末にいつも札幌に凱歌が上がっていたように記憶している。それがこの年を境に公式戦では一度も勝ててない。理由は簡単だ。村野晋氏(現:ヴィッセル神戸強化本部長兼アカデミー本部長兼アカデミー本部アカデミー運営部三木谷ハウスグループマネージャー…長いですね。ヤシオリ部長としましょう)がいるからだ。その昔(本当にもう9年前)札幌のGMだった時代に、「(札幌が)J2に落ちたってどうということないんですよ」と、至極当たり前のことをサポの前で語って、脳みその足りない連中からいわれのない激怒を買った人である。形式上J2落ちの責任を取って札幌を辞めたということになっているが、実際はそうではないことをオレは知っている。そのヤシオリ部長さんに今年の春、御殿場うさぎ島グラウンドで会った際に聞いてみた。「なんで勝てないんスかねぇ?」「かけてるカネが違うからよ」………。
 試合は先制され神田夢実のゴールで追いついたものの失点し1−2で敗れる。相手のDFに岩波拓也(来期から浦和レッズ)がいた。
 オレ的なハイライトは試合後にあった。これが国立での決勝3試合目ともなれば表彰式の勝手もわかっている。それ以前に天皇杯の決勝もこの頃はほぼ毎年見に行き、メインスタンドの値段の高い席に座っていたくらいだから、表彰式の際に選手たちがどの通路を通って表彰台まで上り、どんな段取りを経てどのルートで降りていくかパーペキに把握していたのだ。果たして、向かって左のホーム側に陣取った札幌側のサポ・関係者や父兄の皆さんを尻目に、一時的に封鎖される前の通路をアウェイ側へと向かう。その結果、敗れた札幌選手たちの沈んだ表情や、得点王表彰を受けた神田と下田康太(現:今年までVONDS市原…来年どーすんだ?)の姿をほぼ真正面から捉えることができた。どうだ。サッカーには負けたがオレ的な勝負には勝った。


○高円宮杯全日本ユース選手権(U−15)
  2009年 札幌 1−2 神戸
   札幌の得点者=神田



 くそぉ…。U−12が想定外のことをしてくれたお陰で2回どころか3回に分けなければならなくなった。初回を「前編」にしておいて良かった。今回は「後編」ではなく「中編」として、次回で完結ってことにしようか。できれば新年8日あたりまでお待ちください(笑)。
posted by higuma at 20:08| Comment(0) | スポォツ系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月25日

決勝戦の風景(前編)


 「決勝戦の景色は違う」


 かつてコンサドーレ札幌を率いていた柳下正明(現:ツエーゲン金沢監督)の言葉だ。時は2006年の12月25日。場所は湘南ベルマーレの練習場である馬入ふれあい公園。厳しい冬の訪れで積雪により練習場が使えなくなった札幌が、天皇杯に臨む練習のために湘南に貸していただいたグラウンドだった。柳下の言葉を続ける。

 「決勝に残ってプレーができるというのは本当に幸せだと思う。選手のときの方が緊張したよ。偉い人(JFAだけでなく皇族なども)が来ているし、ゲーム前に握手とかするでしょ。するとやっぱり…緊張するよ(苦笑)。サッカー以外のところでね。サッカーをやること自体は同じなんだけど、スタンドの雰囲気がぜんぜん違うしね。」

 1982年にヤマハ発動機(現:ジュビロ磐田)の選手として、札幌の監督に就任する直前の2004年にはジュビロの監督として、それぞれ国立競技場での天皇杯決勝を経験している柳下は、このシーズン限りで札幌の監督を退くこととなる。が、「監督を男にしよう!」と一致団結した選手たちの下、天皇杯での札幌は快進撃を見せる。千葉、新潟、甲府といった割とお手軽なJ1勢を次々と撃破し、エコパスタジアムで行われるガンバ大阪との準決勝に駒を進めていた。最終的にガンバに力負けし、この時点でのJ2クラブとしての初の決勝進出は夢と消え、決勝進出を控えて東京行きの航空券を手にしてた札幌サポーターも涙に暮れた。柳下も自身47回目の誕生日を国立で迎えることは叶わなかった。

 コンサドーレ・グループが日本サッカー協会主催もしくは共催の全国大会で決勝戦に進出した経験は、2017年末時点で実に11回もある。このコラムでは順番に…あ、すまん。ここでオレが取り上げるチームはプロのトップチームではなく、U−18から下のいわゆるアカデミー組織のことである。当然だな。トップは前述の2006年天皇杯の準決勝進出が最高成績だし。そもそも「決勝戦」が存在する大会自体が少ないから。
 ひぐまさんは11回のうち9回の決勝戦をナマで見ている。つまり「サッカー」での決勝戦はすべて現地観戦しているということで、こんな呆れた重病患者はそうそういないと思う。いたら前足挙げて。

 例によって長い長いアヴァンタイトルでした。ここからさらにSターウォーズを上回る大長編の本番。


1&2.全日本ユース(U−15)フットサル選手権(2001年&2014年)


 前項で「え?サッカー以外にもあるの?」と訝ったアナタ。あるんです。コンサドーレ札幌史上初の全国決勝戦。2001年1月、大阪の舞洲アリーナで開催された「全日本ユース(U−15)フットサル大会」がそれ。初出場だったコンサドーレ札幌U−15がちゃっかり初優勝まで遂げてしまっていたのだ。今日時点からさかのぼること約17年前。札幌初の決勝進出であり、かつ21世紀初の公式タイトル保持者になったわけである。
 当時18歳(え?)でまだまだアオかったひぐまさんもフットサル自体は当然知ってはいたが、「そんな大会あったのか!」と素直すぎる感想を持ったこの快挙。さっそくクラブに電話してことの次第を聞いたところ…「『好きにやれ』で優勝しちゃったんですよ」という答え。つまりこの大会の北海道予選が前年の冬に行われていたらしく(現在は違う)、「お前たちで出場権を取った大会なんだから」と、三浦雅之監督(現・コンケーンFC監督=タイ)も細かい指示は出さず、選手に任せていたら優勝しちゃったという嘘のような大会だったらしい。
 できるだけ詳しく調べておきたかったものの、なにせ資料がない。現在JFAのWebサイトを開いても最終成績しか取り上げられていない。増してや2001年当時はインターネットは世にあったものの、情報発信のきめの細かさは現在とは比較にならないほど貧しい。では出場したであろう選手に聞いてみればということで、時系列的に考えれば現在クラブの強化部でブイブイ言わせている(ヒーヒー言わされているともいう)あのS木T樹さんあたりが当時中3で出場していたかもしれないのだが、実はさんざん会っているくせになぜか話題にしたこともない。次に会ったら噛み付いて聞いてみようとは思っている。思っていてもすぐに忘れる。還暦を過ぎると(え?)物忘れが酷くなる。
 ちなみに同大会にはコンサドーレ旭川−15も2014年大会で準優勝している。監督は現在京都のトップチームでコーチを務めている佐藤尽だった。
 この2大会の決勝戦にはひぐまさんの姿はなかった。翌2015年大会からひぐまも現地観戦をしているのだが、会場が愛知県豊田市だったり三重県伊勢市だったりで世間の注目度も著しく低く、会場内は閑古鳥すら風邪を引くほどの寒々しい風景が広がっていた。でもさ、プレーヤーたちの熱量はサッカーに負けず劣らず熱い。決勝戦前にはFIFAのフェアプレーフラッグも選手を先導し、アンセムも響く。スタンドからは敗退したチームによる友情応援もある。屋内競技でもあり、サッカーとは違った昂ぶり、異なる興奮が会場を包んでいる。終始噛みまくりの場内アナウンスだけがどうにかならないものかと思うのだが、たった3日間で終わるのは惜しいほど素晴らしい大会だと思っている。

 ところで、コンサドーレグループU−15でもフットサルに対するスタンスには若干の相違がある。札幌も旭川もあくまでサッカー(注:選手たちは“外サッカー”と呼んでいる)のトレーニングの一環としてフットサルを行っていることに変わりはない。2年前に全国大会に出場した札幌U−15などは、U−18に昇格できない選手たちだけでチームを構成した。例年1月の初めはアカデミーの練習も冬休みとなるところを、わずか2日間だけ地元で練習を行って、成人の日が絡んだ3連休に開催される全国大会へと飛んだ。
 札幌に比べると旭川の方がもう少し勝負根性に長けた姿勢を取っている。札幌と違い屋内練習が出来る施設も限られており、自然に冬の間はフットサルで基本技術を磨くほかはない。どうせやるなら頂点を目指そうと、選手も指導者も熱は入る。まだ訪問したことはないのだが、恐らく釧路もそうだと思うし、ここ数年ライバルとしてコンサドーレや北海道のチームの前に立ちはだかっている長岡ジュニアユース(あるいは他の長岡地区のチーム)も似たり寄ったりだと思う。
 思いっきり話は逸れるが、先日U−18の全国リーグである高円宮杯プレミアリーグへの昇格をかけた参入戦の一回戦で対戦した帝京長岡高校には、かつてU−15時代にフットサル大会で鎬を削った選手たちが多数存在していた。

 話を戻す。続いてU−18に飛ぶ。

○全日本ユース(U−15)フットサル大会
  2001年 札幌 2−1 UFC・UB
  2014年 旭川 2−3 FC五十嵐ジュニアユース


3.日本クラブユース選手権(U−18)(2001年)


 初の決勝進出は2001年の日本クラブユース選手権。場所はJヴィレッジ。財前恵一監督(現:札幌アカデミーヘッドオブコーチ)に率いられたチームは出場5回目にして初めて1次ラウンドの壁を突破。日高拓磨(現:コンサドーレ旭川U−15コーチ)らの清水エスパルスを撃破し、準決勝では六車拓也(現:セレッソ大阪西U−15コーチ)らを擁し優勝候補の一角であった京都パープルサンガを下して決勝に駒を進めた。対戦相手は「FC」と書いて本当は「セクシー」と読ませたいFC東京だ。
 決勝は獣道を通った(ウソ)先のJヴィレッジスタジアムで開催された。話は逸れるが同スタジアムのこけら落としの試合は福島FCとコンサドーレ札幌がJFL時の1997年に対戦したものである(「(渡辺)卓祭り」だった試合だ)。福島FCはその年限りで解散してしまったため、現有クラブでは札幌が唯一こけら落としを体験したスタジアムとなっている。
 「硬くなってしまいましたね。あっという間に終わってました」とは、ゴールマウスを守った相川雄介(現:札幌アカデミーGKコーチ)である。ユース設立6年目の東京に対し、5年目の札幌。ともに決勝は初。フレッシュな顔ぶれで迎えた決勝戦は、馬場憂太の2ゴールで東京に凱歌が上がった。
 この大会、問題はスタンドの方にあった。呼んでもいないのにわんさかやってきたビョーキのサポーターたちがバックスタンドに陣取る。応援に名を借りて馬鹿騒ぎしたい気持ちはわかる。それでもタイコが4つってのは何なんだ(笑)。すいません僕ら以来17年間まったく成長していないんです。
 FC東京の応援は控え選手やU−15の選手たちが中心で…中に約1名スタッフのO場さんもいたんだがwww…、彼らと一緒の試合前の「adidas Japan!」コールも何なんだ(笑)。とにかく、サポーターたちが「ネタ」に走ることによって少しでも選手たちの緊張をほぐしてやろうとしたにもかかわらず、ガチガチ札幌U-18の決勝初挑戦は敗退で終わった。…「ネタ」が悪かったんじゃないか?双方ともその後サプライヤ契約を解除したし(^^;;;
 言うまでもないことだがMVPは馬場、MIPは得点王も獲得した札幌のプチ俺王あんにゃろが選ばれた。前述のフットサルで優勝しU−18に昇格していたS木T樹さんは1年生でレギュラー。怖いもの知らずでやりたい放題やっていた。出場はなかったが東京のベンチには李忠成(現:浦和レッズ)がいた。こちらもまだ1年生だった。


○日本クラブユース選手権U−18
  2001年 札幌 0−2 FC東京


4.高円宮杯全日本ユース選手権(U−18)(2005年)


 そのときの相手=FC東京の監督さんをしていたのが柴田峡氏。来年度からは松本山雅FCで編成部長を務める。その柴田氏と意外な形で再開したのが2005年の高円宮杯U−18。札幌U−18による2回目の全国決勝の舞台である。場所はさいたまスタジアム2002。
 高円宮杯はこの年から2010年までは開催方式が変更されていた。すなわちワールドカップと同様に、まずラウンドロビン(総当り)を戦い、ノックアウトのトーナメントへ勝ち上がるシステムになっていた。会期も夏の主要大会(日本クラブユース選手権、高校総合体育大会など)が終わった9月から10月初めにかけての集中開催となり、スケジュール的にはかなり濃密な大会となった。なお準々決勝と準決勝は今はなき国立(大)競技場で戦っている。
 札幌は静岡県藤枝市で開催された1次ラウンドを1勝1敗1分の2位で通過した。3位の鹿児島実業高校とも得失点差まで同成績で肩を並べていたのだが、当該対戦成績で鹿児島を破っていたため、やっとこさグループ2位を確保できた。そして決勝トーナメントでも勝負強さを発揮し、九州王者鵬翔高校を振り切り、夏の選手権王者青森山田高校も倒し、滝川二高校をも下して決勝へとやってきた。しかもうち2試合では退場者を出しながらの必死のパッチの全国制覇王手であった。決勝の対戦相手は東京ヴェルディ。この年から監督としてヴェルディのベンチに座ったのが柴田氏で、対する札幌U−18の監督は前年に就任した四方田修平だった。
 10月10日に行われた決勝戦。札幌は岡揚一のゴールで先制し、日本一の頂に片手はかけた。しかし予想に反し走りまくるヴェルディの勢いに圧倒され1−4で破れた。「走りまくるヴェルディ」という語句の違和感にリアリズムで返した人物こそが柴田氏だったのだ。いくら育成部門とはいえ、当時(現在でもかもしれないが)FC東京からヴェルディへの人の移動と言うのは言わば掟破りであった。個人技重視という伝統のスタイルを一変させた柴田ヴェルディのサッカーは、それでも4年で幕を閉じる。それほど育成の進化のサイクルは短くなっていた。
 札幌は藤田征也(現:湘南ベルマーレ)や西大伍(現:鹿島アントラーズ)らが主力で、対するヴェルディにはその後大竹七未さんをヨメにする弦巻健人や河野広貴(現:サガン鳥栖)らがいた。

○高円宮杯全日本ユース選手権(U−18)
  2005年 札幌 1−4 ヴェルディ
   札幌の得点者=岡


5.高円宮杯U−18サッカーリーグ チャンピオンシップ(2011年)


 この年から前述の高円宮杯が大きく変化した。春先からほぼ1年間に渡って日本列島を東西に分け全国の強豪U−18チームが総当りでリーグ戦を行い、双方の優勝チームが日本一を賭けて一発勝負に臨む形式となった。「まさに札幌のため」(四方田監督)という印象の大会であり、その初年度で札幌は東日本のプレミア・イーストを制した。
 例年札幌は全国の強豪チームとのガチンコ対決は夏の日本クラブユース選手権まで待たねばならなかった。ほぼ3月いっぱい、年によっては年度が変わってもなおグラウンドを雪に閉ざされ、かつライバルといえるレベルの高いチームが存在しない北海道では、この7月までの貴重な時間をどう消化していくかが指導者たちの悩みの種だった。それがこの年から4月の声を聞くと同時にチームをフルスロットルに高めることが可能になった。選手たちは当然高校生なので、学校の試験期間や夏休みの他の大会との兼ね合いでリーグ戦の中断期間は確かに存在するが、2週に1度の割合での遠征、前泊しての関東や東北、東海の強豪チームとの真剣勝負。北海道や雪国のチームには願ってもない夢のようなシステムが現実となったのだ。なお遠征費は半分協会負担となったらしい。
 札幌は春先から順調に白星を重ね、東日本の頂点に立った。そしてさいたまスタジアム。対するはその年のJユースカップで歴史に残る激闘を繰り広げた西の王者サンフレッチェ広島。相手に不足はない。
 ところが札幌に異変が起こる。前日練習で神田夢実(現:愛媛FC)が突然体調を崩した。嘔吐までしてしまったらしい。翌日の試合会場に姿を見せた神田の姿はいつもとまったく変わらなかったが、結局スタッフの判断で彼の出場は見送られた。それでなくてもこの年のU−17ワールドカップで「深井さん無双」の大活躍を見せた深井一希も膝の状態が思わしくなく、時間限定での出場と見られていた。今にして思い出せば札幌アカデミー史上最強といえるドリームチームの2枚が欠けた。加えて選手たちにリーグ戦とは異なる環境での緊張が襲う。おそらく神田の異変も過緊張によるものだったのだろう。硬くなった札幌は広島に押され、後半なだれ式に3失点した末に敗れてしまう。それはJユースでの対戦のようにイニシアティブを握り続け「サッカーで勝ち、勝負に負けた」敗戦ではなかった。
 もう一度やれば札幌が勝っていたかもしれない。しかし勝負に二度はない。あっても基本は学生チーム。同じメンツで、同じ舞台で対戦することはない。それが決勝戦なのだ。
 そして試合終了後には帰りの飛行機の都合で報道陣もロクロク取材できないうちにとっととスタジアムを去ってしまった。声を聞けたのは四方田監督と主将であった“ながこう”こと永井晃輔(現:ノルブリッツ北海道)だけ。ながこうの取材の最中に「時間だから」と連れて行かれてしまったのだ。…仮に札幌が優勝していたとしたらどうするつもりだったのだろう?(これはクラブ的には言われたくないことかもしれないが、自身の備忘録として書き留めておきたい)

 5つめ終わり。あとの5つはすべてU−15であり、残りのひとつはU−18で、唯一の戴冠となった2012年のJユースカップになる。

○高円宮杯U−18サッカーリーグ チャンピオンシップ
  2011年 札幌 1−3 サンフレッチェ広島
   札幌の得点者=中原



 決勝戦っていいよね。

 トーナメントの最中、ノックアウト方式でどちらかが大会を去る。日を重ねるにつれ生き残りチームが減っていく。最後の最後は常に2チーム。それがすなわち決勝戦。本命・対抗が当然のように上ってくることもあるし、時にあまり期待を寄せていなかったチームがあれよあれよという間に勝ち上がっていってしまい、優勝してしまうこともある。
 サッカーの場合は大抵準決勝から決勝戦まで日数が置かれている。その間にチームに関わりのある人たちの体温はグッと上がっていく。ワクワク感を募らせ、現地遠征の切符や宿の手配をする人も、地元に残ってテレビ観戦や応援会の企画を練る人もいる。神社にお参りをしたりという人もいるだろう。祝勝会の準備に急に追われる人もいるだろうし、そのための予算をかき集める人もいるだろう。
 北海道的には駒大苫小牧のときの熱狂が記憶に残っていると思われる。近年、休息日を挟むようにはなったが、基本的には甲子園=高校野球は連戦だ。沸騰点を迎えるまでの時間が少ない。その分、勝ち上がるにつれて応援する人々のテンションは急カーブで上昇する。歴史が一夜にして動くような瞬間を体感することができる。休息日をはさむサッカーでも上昇カーブが少し緩やかになるだけで、人々の心の高まりは同様なのだろう。近年ではなでしこジャパンの世界制覇がまだ記憶に新しい。ひぐまさんは2005年に「日本の女子は男子より早く世界の頂点に立てる」と予言してからわずか6年でそれが実現してしまった。残念なのはその予言をごくごく少数にしか話していなかったことだ(泣)。
 とにかく、勝者になろうが敗者となろうが、(ほぼ)等しく同じ試合数をこなすことができる。大会に最後まで残り「よく頑張ったね」とメダルやら記念品やらを受け取ることができる。それが決勝戦だ。

 コンサドーレ札幌U−15は過去5回も全国大会決勝戦を体験している。そのテンションの昂ぶりとカタルシスはトップチームしか応援したことがない人々は未だ味わったことがない。この先、味わえるとも限らない。いや、たぶん一生味わえ…(自粛)。


6.高円宮杯全日本ユース(U−15)サッカー選手権(2002年)

 気がつくとベスト4に進出していた。前年のU−18は活動開始5年目だったが、こちらも6年目で頂点が見えるところまで来た。
 この年は参加チームが全部で16しかなく、遠く広島で行われた1回戦と2回戦を勝ち上がると、2週間後には西が丘(現;味の素フィールド西が丘)の準決勝が待っていた。12月。氷雨が降る中で行われた準決勝はハーフナー・マイク(現:ヴィッセル神戸)のヘッド一発を守りきり、鹿島アントラーズとの決勝を迎えた。場所は冬晴れの国立競技場。
 そう。この頃の高円宮杯U−15はJFA的にはそれほど重要視していた大会ではなかった。ただ決勝戦だけはより多くの人々の目に触れたほうが良いだろうと考えられたのか、あるいは会場を借りる予算をケチッたためか、万単位の人で埋まるであろう天皇杯準決勝(の片方のカード)の前座に充てられた。おかげで応援に向かうこちらは別に興味のない天皇杯準決勝のチケットがないと入場できないという辛らつなイジメに遭ってしまった。準決勝のカードなど憶えていない。今から記録を調べようとも思わない。
 前述通りこの頃の札幌U−15にはマイクがいた。父であるディド・ハーフナーが札幌のGKコーチだったせいで、自然に札幌のアカデミーを進路に選んでいたからだ。現在公称194cmという身長はこの頃すでに180cm台の後半あたりにさしかかっていたかもしれない。とにかくデカかった。チームメイトとの集合写真でもアタマひとつどころか、ふたつみっつは抜きん出ていた。ポジションはFW。すでに書いたが準決勝では高さを生かしたヘディングシュートを炸裂させ、チームを決勝へと導いていた。もし彼が他のユースチームにいたのならば、味方はマイボールをひたすらマイクの頭めがけて蹴り込む戦法を貫き、多くの勝利を手にしていただろう。だが札幌はそれをやらなかった。札幌の指導者たちは「マイク大作戦」を是としなかった。
 この年、札幌のトップチームは混迷の中にいた。シーズン途中で柱谷哲二(現:2017年までヴァンラーレ八戸監督)監督を解任し、次期監督として招聘したイヴァンチェビッチも「ノー・アイディア」の名言とともにクラブを去った。次いでコーチだった張外龍を内部昇格させた際に、U−15監督を務めていた三浦雅之もトップのコーチとなり、代わって前年からU−15コーチとして招かれていた森下仁之(現:九州産業大学監督)が監督に、トップコーチだった冨樫剛一(現:東京ヴェルディアカデミーダイレクター → レアル・ソシエダ=スペインへコーチ留学中)がU−15のコーチになった。トップの体たらくがユースにまで影響を及ぼしたわけだが、誰ひとり「マイク大作戦」を指導しなかった。理由は簡単だ。「ユース選手が巣立って行く先々に、常にマイクがいるわけではない」からだ。自分の目で展開を読んで、自分の判断でボールと味方を動かしてゴールに迫る戦い方をこの年代のうちに憶える。そこにブレはなかった。無論マイクの高さはチームの武器ではある。だから準決勝のような試合もあるにはあった。
 果たして試合は鹿島が優位に立ち、黒沢の2ゴールでリードを奪う。札幌でゴールを陥れたのは西大伍。小憎らしいループシュートをすとんと鹿島ゴールへと落とし込み1点差に迫ったのだが、反撃もそこまで。
 試合後ガックリと肩を落とすマイクの写真が翌日のスポーツ紙のウラ一面を飾った。「キャプテン、ゾッコン」のキャプション付きで、つまりサッカー協会会長の川淵三郎がその高さに惚れ込み「将来が楽しみだ」といった内容だった。もっとも、当のマイクは翌年から父と一緒に横浜F・マリノスのU−18に進むことがこの時点で内定しており、札幌サポーター的には「全国区になった!…と思ったらすぐに他所の子」という悲哀を味わうこととなった。一方の西は3年後の2005年にはU−18の一員として高円宮杯決勝の舞台を踏み、さして注目を集めたわけでもなかったのにトップに昇格して日本代表にも選出された。現在時点で札幌アカデミーの出世頭となったわけだ。「おや、お連れさんの方がお上手だ」
 高円宮杯決勝が終わるとお約束通り早々に帰路についた。せっかくメインスタンドの指定席チケットを買っていたのに勿体ない(笑)。

○高円宮杯全日本ユース選手権(U−18)
  2005年 札幌 1−4 ヴェルディ
   札幌の得点者=西


(後半に続く。たぶん続く。恐らく今年中に)


※本文中正確には「北海道コンサドーレ札幌」とすべき箇所もあり、「ユース」「U−15」などを付け加えなければいけない部分もありますが、面倒くさいのでざっくり略してます。
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2016年07月29日

ひぐまさん、福島を行く(8=最終回)

 たいへんお待たせをいたしました(決定)。今回で最終回。ひぐまさんの連載モノとしては珍しくきちんと終わるぞ(推定)。

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<地元新聞はひぐまさん滞在中の2日間とも1面トップで震災・原発事故関連のニュースを取り上げていた。5年たってもなお…である>

 エビ反るよーに木戸からいわきへと戻り、新常磐交通の高速バスに乗る。行き先は福島市。昔の「ヤンヤン」と比べるとチンケになった(推定)いわき駅ビルに入っている「生まれたときからどんぶりめし」の半田屋のめし(中)はまた今度の楽しみにしよう。夕刻…と言ってもまだ日は高い時刻に福島駅に到着する。

 夜は臨時穴裏手のシネコンで「64」後編を見て少々ガッカリした翌日。バスに搭載されて福島県営あづま陸上競技場に向かう。現在は東邦銀行がネーミングライツを取得し、「とうほうみんなのスタジアム」という名で通っている。
 きょうはJ3リーグの福島vs.盛岡の試合が予定されている。

 ここで会いたかった選手がいる。福島の小山内貴哉と盛岡の工藤光輝だ。残念ながら工藤は遠征に胎動していなかった。怪我ではない。戦術的な理由から工藤がメンバーに食い込む余地がないらしい。今期は開幕戦となったセレッソ大阪U−23戦以来出番がない。
 彼にはこの時点からさかのぼること2週間前に盛岡での試合(vs.富山戦)で会っている。そのためJヴィレッジに関する質問はできなかった。表情は明るかった。「あとちょっとのことなんですよね。それでメンバーは入れ替われると思います」と語っていた。ベンチにも入れないとはいえ今年は副主将も努めている。
 ついでに書くと富山の三上陽輔は右ハーフとして出場していた。移籍後ボランチやDFまで経験したらしいが、今シーズンはハーフに落ち着いているようだ。風貌は口の周りやアゴなどに何か黒いカビが生えているようで、実際に会ったら冷やかしてやろうと思っていたのだが、帰りの新幹線の時刻に短い尾を引かれ、泣く泣く盛岡駅へ向かった。

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<工藤光輝>

 話を福島に戻す。運動公園の中をすっかり夏の日を浴びながらのっしのっしと歩いていくと、反対側から知った顔が歩いてくる。太い首筋に汗を光らせ、見るからに練習後という風情だ。「あれ?」と声は聞こえる距離ではないが、明らかにそんな表情を緩ませる。小山内だ。「どうしたんスか?」とにこやかに迎えてくれる彼は、春先に右足の腓骨筋の腱(足の甲の外側)を断裂して戦線を離れていた。しかし「練習はしています。もう大丈夫です」と明るく答える。ただ、「怪我してしばらくは動けなかったので…少し太ってしまいましたね」と少々バツが悪そうだ。彼にJヴィレッジの写真を見せ、思い出話を聞いてみる。
 「Jヴィレッジですか…う〜ん…いい思い出は…ないです」らしい。高校3年時にプレミアリーグEASTの初代王者になった黄金世代の彼でも、Jヴィレッジは挫折の場所だったようだ。「中学のときも高校のときも早いラウンドで負けちゃっているんですよね」。中学3年時(2008年)は決勝トーナメントに進出したのだが、1勝1敗1分で薄氷の進出だった。唯一の勝利は南野拓実(現・ザルツブルグ)がいたセレッソ大阪U−15戦で、ラウンド16で敗れたガンバ大阪ジュニアユースには後にトップ昇格する田尻健や西野貴治らがいた。彼にとってのJヴィレッジは2010年の高校2年生時で終わっており、同じく1勝1敗1分だったのだが、勝ち抜けは叶わなかった。翌年からクラセンは群馬開催に変わっている。
 「今は飯坂温泉のほうに住んでいます。応援していただいていて、温泉にも安く入れるんです。試合復帰まではあと1か月半か2ヶ月くらいかかりそうです。天皇杯の福島県決勝(注・福島ユナイテッドはスーパーシードで決勝戦のみ出場)を目標にしています」とのこと。
 実は今期の小山内と同じように、2年前に福島に期限付き移籍をしていた堀米悠斗(現・札幌)が移籍の際、札幌に住むご両親に福島行きを反対されていたと聞いたことを思い出した。「僕の場合は大丈夫でしたね。2年前だったからじゃないですか?」「いまと状況が違っていたからね。ところで2020年の東京五輪に向けて、Jヴィレッジは施設を再開したいと言っているらしいけど、どう思う?」「間に合うんですかね?」といささか懐疑的だ。「実は福島に来てもあっち(太平洋側)のほうには全然行っていないのでよくわかりません」ということだった。本人は元気だったので、札幌サポーターのみなさんも安心してほしい。

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<小山内貴哉>

 とうほうみんなのスタジアムのメインスタンドをのっしのっしと歩いていると、上方から「こんちは」の声がする。振り向くと、なんとS木T樹(現・北海道コンサドーレ札幌強化部)さんがいた。レンタルで出している小山内に会ってきたということだ。「ついでに工藤にも会いたかったんですけ…うわっ!」言い終わらぬうちに首筋にがぶっと噛みついて引きずり倒す(推定)。この際だ。彼にもJヴィレッジの思い出を語ってもらう。
 「僕は…いい思い出しかないですね。結構勝ちましたから。1年生のときにいきなり準優勝だったでしょ。楽しかったですね。決勝戦はちょっと硬くなっちゃいましたが」そう。彼は高校1年生で出場した2001年のU−18クラセンでいきなり全国準優勝を体験している。決勝戦のみを戦ったスタジアムを知っているメンバーの一人だ。「2年のときもベスト4まで行きましたからね」。準々決勝でFC東京との前年度決勝戦カードを実現させ、梶山陽平(現・FC東京/当時から老け顔)とゴールを取り合ってPK戦の末に前年の借りを返している。「その前にも中学のときとかトレセンなんかでよく行っていたんですよ。初めて行ったのは確か小学生のときだったかな?」彼はコンサドーレユースU−15の一期生だった。U−15当時の彼をナマで見る機会はなかったが、札幌・岩見沢(彼は岩見沢出身)周辺ではなかなかに有名な選手だったらしい。プロで大輪の花を咲かせることは出来なかったが、深く印象に残っている選手だった。現在は爪で全身を引っかかれて血だらけでひぐまさんの前に横たわっている。ご愁傷さま。

 その当時のコンサドーレの育成部担当で、現在は盛岡で運営部長をされている渡部輝道さんにも少し話を伺うことが出来た。「みんな集まって一箇所でてきたのがよかったですよね」。その通り。周辺に遊び場も盛り場もないため、ひたすら選手たちは周辺の宿舎(小さなホテルや民宿など)とJヴィレッジを往復するだけだった。他のグループの試合を見たり、同じピッチでウォーミングアップを図ったり、横のつながりも数多く生まれたと思う。
 (なお本人が「写りたくない」らしく、渡部さんの写真はありません・笑)

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<S木T樹さん。写真は襲撃の前>

 福島訪問記は以上。あくまで蛇足としてJヴィレッジを巡る旅としてあと2人ほど声をご紹介したい。

 福島から横浜へ戻ってきて2週間後の6月24日(金)の夕方、今度は北海道へ飛んだ。旭川空港からバスで東川町へ向かい、昨年も出来心で訪れたコンサドーレ旭川U−15の練習場に、今年もまたついうっかりやってきた。
 東川グラウンドに向かってのっしのっしと歩いていると、偶然バンを運転していた松山育司コーチに捕獲された(笑)。クルマに同乗させていただき、練習場の鉄扉までやってくる。そこで門を開けてくれたのがお目当ての人だった。日高拓磨コーチである。

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<コンサドーレ旭川・東川グラウンド。一番昼間の長い時期に訪れた>

 現役時代と変わらぬスリムな体系の日高はサガン鳥栖や札幌でのプロ生活が知られているが、高校生時代は生まれ故郷の広島県福山市を離れ、清水エスパルスのユースに所属していた。「知人のツテがありまして、エスパルスのセレクションを受けたら通ったんです」と語る彼は成長期には攻撃的なポジションを得ており、エスパルスユースでも「FWか右サイドでしたね」と語っている。
 日高が出場したクラセンは2001年。前述の札幌U−18が準優勝を飾った年だ。「よく憶えていますよ。悔しくて悔しくて忘れられなかったです。タツ(あんにゃろ=現・AGGREスポーツクラブU−15コーチ)にやられたんですよね」。清水はグループラウンドを3戦全勝で蹴散らし、順調に準々決勝に進出し、札幌と対戦した。下馬評では清水有利と見られていたが、今大会のダークホース札幌が2−0で勝ってしまう。よほど悔しかったのかその後に行われた順位決定戦(注・当時高円宮杯への出場権はクラセン上位5チームに与えられていたため実施された)は「そんなのやりましたっけ?…え〜…憶えていないです」と、すっかり記憶の外へ押し出されているらしい。順位決定戦は2試合行われ、最終的に清水は5位を勝ち取り高円宮杯への切符を手にしているのだが、その2試合でFW日高はともにゴールを決めていたにもかかわらずである。ちなみに高円宮杯初出場の札幌は富山県高岡市で地元富山の水橋高校(瀬戸春樹の出身校。対戦時にはJリーガーとして札幌からガンバ大阪に移籍していた)と対戦し、どう考えても勝てる相手だったにもかかわらず1−0で負けた。高岡での2日目がヒマでしょーがなかった(泣)。
 クラセン準々決勝での札幌との試合ではまず浜本伸孝(→ ジェフ市原アマチュアなど)の超ロングシュートで清水のネットが揺れ、続いて終了間際にあんにゃろが追加点を決めて札幌に凱歌が上がった。
 「その当時、僕らの世代は『谷間』と言われていたんです。上がすごい連中ばかりで、下も上手かったんですよ。だから『なにくそ』って思ってやってましたけどね」。ひとつ上の清水ユース卒団生には村松潤(現・ギラヴァンツ北九州)や札幌でも活躍した高木純平(現・東京ヴェルディ)らがおり、日高よりひとつ下の世代では杉山浩太(現・清水)や、今期札幌へ期限付きで移籍してきた菊地直哉らがいた。彼らは2002年にクラセンU−18初優勝を遂げている(※)。
 明治大学(偶然だが盛岡の神川明彦監督が当時の明治を指揮していた)の4年生のときにアモーレ長友が入学してきた。「タイコ叩いてましたね(笑)」と日高は証言している。その後の長友のサクセスストーリーに日高は直接かかわってはおらず、大学時代にはただ応援要員だった記憶しかない。
 「怪我から復帰しても、もう走れなくなりました」と、昨年一杯でカターレ富山を現役引退した日高は、今年からアカデミーコーチとして旭川で暮らす。主に中学1年生を受け持っている。輪になった選手たちにボールを放り上げてヘディングの練習を繰り返していた。「旭川には小学生年代に正しいヘディングのフォームを教えられる人が少ないのかもしれないですね」と、吐き捨てるわけでもなく面倒がるわけでもなく、数回子供たちに繰り返させては「腰を使って、こう」と手本を示し、それを繰り返していた。砂地が水を吸い込むように、子供たちのフォームが変わっていく。熱心に教えているその様子は、すでに立派な指導者の姿となっていた。

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<日高拓麿コーチ>

 もう一人、高木貴弘にも話を聞きたかった。こちらも昨年J3相模原を最後のクラブとして現役を退き、再び北海道へ渡ってきた一員だ。旭川U−15のGKコーチに就任していたのだが、あいにくこの日は札幌のユースの指導で旭川を留守にしていた。彼は日高より2年前の1999年にジェフ市原ユース(当時)の一員として札幌U−18と対戦している。彼自身は試合には出ていない。札幌との試合でゴールマウスを守ったのは太洋一(現・東京23FC)で、高木は交代要員だったが、彼らを含めこの当時のジェフユースからは多数のプロ入り選手が出ているのは以前書いたとおり。
 高木とは秋のJユースカップでの激闘の方が記憶に深い。その試合で途中から札幌のゴールマウスに立ったのが、現在は札幌U−18を指導している相川雄介だった。当時高校1年生だった。

 最後もGKから。松原修平。函館からコンサドーレU−15に加わり、U−18までの6年間を過ごした。現在はファジアーノ岡山に所属し、選手会長についている。道産子、かつ体格がガッツリ系のため、岡山サポーターからは「クマー」と呼ばれているらしい。
 行き方を調べると「クルマを持っていない人は来るな」としか読めない政田サッカー場。地元在住のサポーターのクルマに搭載され延々と岡山市内を走りやっとのことでたどり着く。不安定な空模様で時折り細かい雨粒も落ちてくる中、札幌でのプレー経験もある富永康博コーチのハードな練習に食らいつく姿をネット越しに見る。
 居残り練習の終わりに声をかける。彼とはファジアーノ岡山ネクスト登録時にも何度か会ってはいるが、腰から下の下半身が確かに「クマー」になっていた。
 「お久しぶりっす。いや〜トミ(富永)コーチの練習キツいっす」。
 彼は小山内の1学年上で三上陽輔と同期だ。黄金世代の入り口あたりと言えばいいだろう。が、夏の戦跡はそう輝かしいものではなかった。「Jヴィレッジっすか?…う〜ん…。愛媛FC戦すね。2試合目の。自分史上最悪の試合をしてしまいました」。高校2年生からレギュラーをつかんでいた松原の3年生時。2010年クラセンU−18初戦のグランセナFC戦(新潟)では14対0、相手のシュート数も1本という、いわゆる「GKが風邪を引く」試合で爆勝したにもかかわらず、愛媛FC戦では自らのミスで1−2と敗れる波乱を演じてしまった。必勝を期した3戦目も「引き分けちゃったですよね(相手は浦和)。相手に慎也(矢島)がいましたよね」。現在より勝ち抜けレギュレーションの厳しかった中、グループ突破は成らなかった。リオ五輪に旅立った矢島とは昨年から同じ釜の飯を食う仲で、矢島が1学年下ながらウマが合うようである。
 「愛媛にはそのあと高円宮杯でリベンジしたんですよね。2年のときは準々決勝まで行って、久保裕也(現・スイス ヤングボ−イズ)にやられたんですよ」。2年のときのクラセンU−18では初戦のヴェルディには屈したものの、セレッソ大阪、徳島ヴォルティスを撃破し、3チームで並んだ勝ち点6の争いを得失点差で制し、決勝トーナメントに進んだ。その試合で京都サンガの久保と駒井善成(現・浦和レッズ)にゴールを許し敗退している。
 「コンサに入るまではJヴィレッジには行ったことがなかったんです。でもあれだけの施設ですし、全チームが同じところに集まって試合が出来るのっていいですよね」と、Jヴィレッジでアカデミー世代を終えた最後の学年(2010年度卒団)である彼は語ってくれた。現在の立ち位置としては第3GKらしい。岡山の正GKである中林洋次の壁は厚く高いが、持ち前の明るくくじけないキャラクターで頑張ってほしい。

 松原が「オールJ村最後の世代」ならば、一度でも公式大会でJヴィレッジに出場したことがある世代としては、小学6年生で「全日本少年サッカー大会」に出場した菅大輝(現・コンサドーレ札幌U−18=高校3年生世代)が最後になる。小学5年生で出たことのある子も多少はいるだろうが、小学4年生となるとほとんどいないと思われる。したがってこの1、2年で我が国のユース世代はまるっきり「J村ロス」世代に染まってしまうことになる。

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クマー 松原修平>

 先ごろ東京電力や日本サッカー協会などは、相次いでJヴィレッジの将来像についてのステートメントを報道発表した。それによると、2年後の2018年夏には部分的にトレーニング施設としての営業を再開し、2020年に東京で開催される五輪の男女サッカーチームの強化合宿地として利用したいという意向のようである。また、2019年に日本開催が決まっているラグビーW杯の事前合宿地としても代表チームを誘致したい計画を持っているようだ。現実問題として芝生に種を蒔いてスポーツターフとして利用できるまでには最短で1年かかる(←このことはかつて北の方の某市の某練習場で種を蒔いて半年足らずなのに時の市長が芝をはがし…って、いい加減忘れてやろう^^;;)。イネ科の植物である芝生の種まきは(オーバーシードは除いて)春だ。復旧作業をいっそう加速させていけば到達できると思う。非現実的なスケジュールとは言えない。

 大人はそれでいいかもしれない。しかしながら子供は、いや、子を持つ親はどうだろう?「再開しました」で、即Jヴィレッジへ我が子を送り出せるのか?「除染しました」「線量落ちました」「安全です大丈夫です」の言葉だけで、全国の親はそれだけで納得できるのだろうか?
 確かに震災から5年。懸念されていた生態系への深刻な影響は見えていない。報道されていないだけではなく、実際に原発から20キロ圏内を歩いてみて、少なくともその地域までは異常と言える異常は見つからなかった。20キロをわずかに超えた公園ではパークゴルフやサイクリングに勤しむ大人たちの姿すら見えた。今やJヴィレッジと道の駅だけが震災の爪あとを強烈に感じさせている。フレコンパックが積まれていても、そこは「真っ白」な場所に戻ったのだ。歩いてみてわかった。
 それでもレベル7という最悪の「深刻な事態」を起こしてしまった福島第一原発事故。「溶けた燃料が中国まで堕ちていってしまう」という「チャイナ・シンドローム」のスリーマイル島事故(1979年)でさえレベル5だったのだから、その恐ろしさは推し量れる。20キロ圏の淵を見てきた現時点で、と断った上で、放射能事故の深刻な影響は限定された地域に限られてはいるのだろうと推察される。

 加えると、大会を開くには開催場所だけではなく周辺環境が元通りになることも重要なポイントだ。Jヴィレッジ周辺では相当数の宿泊施設が休業や廃業を余儀なくされただろう。春のU−15のプレミアカップ程度の参加チーム、参加者数でJヴィレッジ自前のホテルで収容が可能だと思われる程度しか賄えないのではないか(実際参加チームはすべてJヴィレッジに宿泊していた)。楢葉町は「真っ白」に戻ったとはいえ今年2月の時点で住民登録されているうち5.7%しか戻っていないらしい。これは横浜の穴に戻ってから知った。6月時点ではもっと戻ってきていたのかもしれないが…。

 福島県によると、原発事故前の2009年度には小学生から大学生まで福島県外から延べ約55万人が訪れていたという。事故後の2011年度は7万人に減少。戻りつつあるとはいえ、2014年度でも25万人と半分に満たない。(産経新聞2016/1/16付より)
 大人たちはいつも地域振興やら経済効果やらそろばん優先で将来を語りたがる。
 Jヴィレッジが子供たちの歓声で包まれる日は、果たして戻ってくるのか否か。一日でも早く「震災後」に別れを告げ、「震災前」のあの明るかった日々が相双地域に帰ってくることをただただ願わずにはいられない。


 よし、終わったぞ!


(※)菊地直哉は高校世代は清水商業でした。エスパルスに強化指定選手として登録されておりました。本文はそのままにしてきますが、ここに訂正いたします。

posted by higuma at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ひぐまの日常系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月07日

ひぐまさん、福島を行く(7)

<注・今回のエントリーには写真がたくさん出てまいります。「これは公開してはマズいかな」と思った写真には注釈をつけ、場合によっては削除いたします。コメント欄にご連絡ください。>

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 夏のJヴィレッジの日差しは強かった。「強かった」が適当な表現だと思う。「めっちゃ」とか「鬼」などの強調表現は伴わない。本州の夏特有のジメッとした空気も楢葉では密度が薄かったように記憶している。いや、そりゃ暑かったことは暑かった。早い話が機能不全に陥るような滅茶苦茶な暑さではなかったということだ。
 隣町の広野町に設置されているアメダス(無人地域気象観測システム)によると、ひぐまが直近にJヴィレッジを訪れた2010年8月は最高気温が30℃を超えた日は約半分の16日しかない。同じ月に東京が31日間中30日の30℃超えを記録したのと比較すると、いかにすごしやすい日々だったかが伺える。
 「暑かったことは暑かった」ので、試合の合間に涼を求めて屋内に避難していたセンターハウスが懐かしい。

 結論から先に書くと、今回は意図的にセンターハウスには入っていない。
 これは、僕の旅行の際のいつもの一種悪い癖みたいなものなのだが、「次にまた来よう」という再訪のモチベーション維持のため、第三者的に見て「それやらんで(そこ行かんで)どうするの?」的なネタをひとつふたつは残しておきたいからだった。たとえば沖縄には過去2度行っているが「A&W(エンダー)でルートビア」は楽しんでいない。帯広にも2011年から2014年を除いて毎年行っているが帯広動物園にはまだ行っていない。ばんえい競馬も2度目(2012年)に楽しんだくらいだ。高知の桂浜には3度目にやっと行った。鹿児島の「むじゃき」は次の少年大会の機会にと思い取ってある。

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 それでもこの際なので記憶に残っているセンターハウスを備忘録的に書いておこう。

 センターハウスは4階建て。正面は西側にあたる。「J Village」のロゴとマークが埋め込まれた正面を背にするとそこはロータリーで、反対側(西側)には屋根つきの雨天練習場がある。奥の南側の建物はフィットネスクラブとして利用されていた施設で、2004年には一度だけ「NIKEプレミアカップ」の大会前日に公開の組み合わせ抽選会があり、入場したことがある。
 日本代表選手たちの姿が大きく貼り付けられた自動ドアが開くと視界が広がる。設置されていた大型のモニターTVには本日のピッチ使用状況や、乾式・湿式双方の温度計の計測値などが記されていた。エントランスホールから全面ガラス張りの窓を通して向こう側(ピッチ側)が見渡せる(直接ピッチ面は見えない)。階段を下りるとサッカー小僧のモニュメント(笑・正確には何と名づけられているか知らない)があり、椅子や飲料の自販機も設置されていて、真夏の暑い日などはサポ連中や父兄の方々がグダーっとしている姿があった(笑)。ちなみに、エントランスホールの上部は2階まで吹き抜けになっており、3階には各種集会や指導者・審判らの講習会などで利用されるコンベンションホールがあるらしい。
 エントランスから右に進むと、このセンターハウスが早い話が「ホテル」であることを表す施設がある。フロントだ。Jヴィレッジは一般の人たち(熊含む)も、特にサッカーをやらなくても宿泊は可能だったのだ。残念ながら実際に泊まったことはなかったのだが、フロントではタクシーの呼び出しやら荷物の配送やらをお願いしたことがあった。対面にはそう広くはないロビーがあった。TVが設置されていて、大きなテーブル付きの席はいつも満席だったように思う。

 ロビーの隣りが本来の「アルパインローズ」だった場所で、さらに廊下を奥(南側)に進むと突き当たりで屋外に出る。少しだけリゾート気分的なテーブルや椅子も置かれている中庭のような場所で、周囲はサッカーチームのためのロッカー室やシャワー室にサロンとして用いられている部屋が並んでいた。サロン部屋は大会時には本部として使用されていたように記憶している。
 エントランス正面に話を戻す。左は売店。小さなコンビニエンスストアといった風情で、飲料やお菓子類、氷に文房具などといった品々のほか、adidas製品を中心としたサッカーグッズやJヴィレッジ独自のおみやげも販売されていた。後述するマリーゼのグッズショップも併設されていた。ちなみに…だが、ひぐまはJヴィレッジグッズはタオル類や「FUKUSHIMA」と書かれたTシャツを購入したほか、毎夏小腹をすかせた末にコンソメパンチを買って食べた。Jヴィレッジのユニフォームを着た小さな熊のぬいぐるみは、現在なぜか北の弱小サッカーチームの事務所内にある(えっ?)。
 その売店から弓状に面積を分かつ形でなでしこリーグ1部に属していた東京電力女子サッカー部マリーゼのインショメーションコーナーがあった。ここはかつてちょっとしたフットボールミュージアムだった場所で…記憶が定かではないのだが別料金を取って見せていたのではなかろうか…な、ところだ。マリーゼコーナーは所属選手のポートレートや経歴が書かれたボードが掲示されているほか、試合開催などを告知するポスターやチラシなどが置かれていた。現在なでしこジャパンのコーチをしている大部由美や、かつてなでしこで活躍した丸山桂里奈(現・高槻)、宮本ともみ(現・JFA女子委員)らが在籍していたチームで、adidasのファーストジャージがめっぽうカッコよかった。買っておけばよかった。くそぉ。
 マリーゼコーナーの向かい側にピッチ側に出られる扉があり、外に出ると面積はそう広くはないが板張りのテラスがある。そこを通って埋め木の階段を降りていくとピッチレベルとなる。テラスにはU−15のクラセンのときなどはかき氷屋さんが出店したこともあった。屋外で使用できる仕様のガーデンチェアやテーブルが置かれている。僕は毎夏、ノートパソコンを開いてクラセンの速報をここで送っていた。当時は電波の入りが悪く、送信にはグレ電(グレーの公衆電話)を使用することもあった。

 マリーゼコーナーから屋内を北に向くと右側(ピッチ側)に宿泊客用の階段とエレベーターがあり、さらに奥にカフェテリアの「ハーフタイム」がある。実はここには入ったことがない。大会中は団体さんの利用が主だったからのように思う。2016年6月現在、この「ハーフタイム」のみセンターハウスでは一般の利用が可能らしい。
 ハーフタイムからもっと奥へ探検すると扉がある。その向こうはやはりロッカーとなっている。一般の利用はドアまでで、向こう側はロッカー使用者のみに限られてはいるのだが、たいてい鍵はかかっておらず、ロッカーを過ぎると歩行者デッキにつながっているため、しばしばショートカットに利用させていただいた。ごめんなさい。

 先ほどのエントランスホール前の階段下のスペースからガラス一枚をはさんで外側は人工的に水路?(池というより水辺)が作られていて、その縁のコンクリートに腰掛けて試合を見ることが出来た。雑草が生えるままに生やして適当に整備されていたような斜面を下ればピッチサイドで、その斜面を利用して見ている人もいた。蚊がうるさくてムシペールは必需品だった。前回も書いたが木が生えているため3番ピッチの全部を見ることは出来ない。また、3番以外のピッチは、そこにピッチがあるということぐらいは雰囲気でつかめるのだが、試合の模様を直接見ることは出来ない。日が西に傾くとここは日陰となりたいへんに涼しかった。Jヴィレッジで僕が一番気に入っていた場所だ。

 話の針を現在に戻す。センターハウスの北側の公道上。ここにも警備員さんが立っているが、こちらがピッチ側に入る素振りを見せないので特に声を掛けられることはない。
 きょうは土曜日だというのに作業服を着た人々5〜6人が目の前を通る。原発事故収束にはまだまだ土曜も日曜もないのだろう。

 前述通りセンターハウスの中は見ていない。興味もあったが、わずかに言い知れない恐れが勝った。「また近いうちに来よう」と自分自身に誓ってJヴィレッジを後にすることにした。元から駐車場だった地点にはバスが並んでいる。バスの間を通って木戸駅のほう(北方)に抜ける。国道6号線へ直接出る道は、かつて原発から20キロ以内で避難区域に指定され立ち入りが禁止され、バリケードが組まれていたらしい。そこへは行かず、木戸駅に向かう道を選ぶ。

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 かつて特急が停車した広野駅がJヴィレッジ訪問の形式上の表玄関とすると、ちょっと頑張れば徒歩で到達することが出来る木戸駅は勝手口と言えるだろう。正面の入口までは約1.5キロだ。
 駅構造は広野駅と似ており…と、言うより四ツ倉やかつての内郷、湯本などとほとんど同じで、駅舎から離れた2番線ホームが単線になっている他は跨線橋を含めて広野と大差がない。実は楢葉町役場に近く当面常磐線の終点となっている竜田駅はひと駅隣りで、この駅も同じような作りになっている。おそらく設計図を使い回しにしたのだろう。
 震災前まで木戸駅は「簡易委託駅」という位置づけだった。駅員さんはJR東日本に直接雇用された社員ではなく、JR関連の会社や団体、自治体に所属や契約している人が派遣されてきているという形式だ。聞くところによると木戸駅の駅員さんは旧国鉄OBの男性だったらしい。過去形で書いている理由は駅の再開とともに木戸駅は無人駅となってしまったからである。震災前でも普段は一日に200人も人が利用しない駅だった。クラブユース選手権の際にまとまった人たちが乗り降りしている姿を珍しいものを見るような目で見ていた、あのおじさんは今どうしているのだろうか。
 クラセンU−15の頃になると駅前の広場には櫓が立ち、盆踊り大会が催される。日暮れには木戸を後にしてしまうため実際に見たことはなかったが、このあたりは各町ごとに、各駅ごとに盆踊りが催されている。先述の内郷駅などは「回転櫓盆踊り大会」が開かれていた。その名の通り櫓が回るのである(本当)。真矢も真っ青だ(違う)。櫓の逆方向となる南側には何か着ぶくれ的な予算が付いたのだろう、小ぎれいな便所が立てられた。

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<中間点>

 木戸駅を降りると同行の士たちの大多数は駅に向かって右の踏み切りに向かって南下する。踏み切りは渡らずに左に見て、逆の右方向におよそ90度折れて、線路を背に田んぼの中の道を進む。ひぐまさんたちは駅を降りて櫓を右に、便所を左に見てその間にある道を直進し、住宅地の中を歩く。短い急坂を上り、あとは緩やかな下り坂をのっしのっしと歩くと、前述の同行の士たちが選んだ道に合流する。この道はちょうど直角三角形の長辺にあたる。短辺2つの和より距離は短い。要するに100mも近道をしたということになる。住宅地と言っても住民を見たことはほとんどなく、クルマとすれ違った記憶も残ってはいない。某GンバのS田スタジアムの騒動とはまったく次元が違う話だ。今回はまったく珍しく犬の散歩の老人とすれちがった。
 このあたりは確かに住宅が立ち並んでいる地域ではある。しかし写真でもわかるようにすでに家を捨ててしまった人も多い。広野町より楢葉町の方が現実のコントラストは濃い。
 そこから道なりにひたすら進むと国道6号線に出る。途中を左に曲がる地点が駅とJヴィレッジの中間点。双方から800m弱。あと半分。ただしここからは上り坂となる。次第に傾斜を増し、途中で曲がり角もあって先が見えない。あとどれくらい登ればいいのか見当が付かない。荷物の多い夏は正直辛い。熊はさらに辛い。前足を使っていても辛い。
 「もうダメだ」と行き倒れになりそうな危機を救ってくれたのが丘の頂点から見えるセンターハウスの姿だ。周辺の様子からはまったく異質な巨大な建造物で、そこがJヴィレッジであることが誰にでもわかる。が大きいのですぐに着きそうなくらい近くに見えるのだが、あと少し歩かねばならない。上りきった地点からは平地になっているのでひと頑張りが利く。そうやって我々は毎夏Jヴィレッジの中に抱かれた。

 今回はJヴィレッジから木戸駅に至るコース、つまり説明とは逆の方向から歩いてみる。

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<「道の駅ならは」だった場所。現在は双葉警察署臨時庁舎>

 中間点のT字路をまずは左に折れて道の駅だった建物を目指す。写真の通り立派過ぎる。相当な予算で作られたのだろう。国道6号線沿いに聳え立っているいう表現がピタリの建物だ。クルマで向かうと建物の両側からの道を上り、国道とは逆サイドの駐車場にクルマを止める。徒歩ならば国道側から階段を利用する。
 「道の駅ならは」は営業していた頃は温泉施設やレストランに物産館などが併設されていた。中は田舎の施設らしく派手さはないもののスペースはゆったりと作られており、高台に位置しているため風が吹きぬけ、盛夏でも涼を感じさせた。レストランにはテーブル席だけでなく畳が敷かれた座敷もあって、クラセンの試合の合間には大の字に寝転んでしばしうとうととしたこともある。
 ここも未だ厳しい現実が横たわっている。原発事故以後施設は放置され、その後の2012年10月からは本来は楢葉町の隣りの富岡町にある双葉警察署の臨時庁舎となっているのだ。双葉警察署はイチエフがある大熊町や、同じく帰還困難地域に指定されている浪江町をはじめ、広野町や楢葉町など周辺の町村を管轄地域としている。
 第一原発から富岡町の北辺までは5キロを切るという。昔の人なら平気で歩く距離だ。2016年6月現在も大半が居住制限区域に指定されており、町への住民の帰還は早くても来年の4月になるという。要するにここが「道の駅」の姿を取り戻すのは、どんなに早くてもその後ということになる。
 今はまだ警察署。当然用もない部外者はおとなしく戻る。

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<犬を散歩させている老人とすれ違う。本当にここで地元民と会うのは珍しい>

 先ほどの中間地点のT字路のあたりに写真のような場所があった。黒のフレコンバッグ…いわゆる「除染袋」の中は高い放射線が計測された土砂や草木などだろう。
 震災事故の際に「生態系に強烈な変化が見られるかもしれない」などとツィートした覚えがある。5年が経過し、報道されている限りでは生態系の変化は見られない。そのようなアングラツィートも目にしない。もしかして我々がわからない場所で、わからない状態で変化があるのかもしれないのだが。
 報道というフィルターを通した情報ではわかりようがない事実を、とりあえず楢葉町までやってきて目にした。フレコンバッグはそれはそれとして、積まれていない場所の方が圧倒的に大きく、草木は茂り、鳥のさえずりが聞こえ、真夏だったら蝉の鳴き声(「声」じゃないんだが)が聞こえてきてもおかしくはない。しかし現実に町を捨てた人の棲み家が放置され、店のシャッターは開かず、飲料の自販機は入れたコインが返却口に戻り、駅は無人と化した。事情を知らない人が見れば単純に過疎化が急速に進んだだけと受け取られても仕方がない状況に、福島県楢葉町は置かれていた。

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<未だ「汚染」は終わっていない。「事故」は終わっていない。>

 ただし、鼻血を出している人には出会っていない。自分自身も出血はしていない(確定)。
posted by higuma at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ひぐまの日常系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月02日

ひぐまさん、福島を行く(番外)

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 大河シリーズとなってしまいましたが、今回は「J村の現状」はさておいて、ひぐまさん的なJ村での思い出を語りたいと思います。

 Jヴィレッジは公道を挟んで北側の敷地にも天然芝のピッチが作られている。7番から11番がそれだ。見たところ3番などと同様に駐車場となっている。こちらは場所的に大型車も目立つ。
 時折り写真を撮るために足を止め、北側クラブハウスの前、すなわち南を向けばJヴィレッジの「メインストリート」とも言えるセンターハウス東側の道路(私道)が見える場所に立つ。クラセンの際にJヴィレッジに着いて公式プログラムを販売していた臨時テントは概ね毎年3番ピッチへ向かう途中の6番(陸上トラック付き人工芝、クラセンではウォームアップで使用)の前にあった。U−12カテゴリーの全国少年サッカー大会の際にはゼビオなどのスポンサーのテントが賑々しく並んでいた。

 3番ピッチはセンターハウスの正面にあたっており、ハウス内から、はたまた上部にあるテラスから見下ろすことが出来る。テラスからの画像を見たことはないが、非常によく見える場所だったのではなかろうか。数あるピッチの中でもメインピッチと言っていいかもしれない。ただ、ピッチ周囲に木が植えられており、ところどころ視界をさえぎられるのが玉に瑕だ。後にスポンサーの名前を取って「adidas pitch」と名づけられている。
 ひぐまが最初にJ村を訪れコンサドーレ札幌U−18の試合を見たのがここだった。1999年の夏のクラブユース選手権U−18である。
 例年3年生や2年生の一部には前年秋のJユースカップで面通しが済んでおり、こちらががりっがりっと爪を研いでいても奇異な目で見られることはなかったのだが、1年生にとっては生涯初のご対面だ。この「なんだあれは?」な目で興味しんしんにこちらを見つめている中に、一人だけニコニコと笑っている小柄な少年がいた。それが、あんにゃろである。
 札幌の初戦は誰もが認める優勝候補だったジェフ市原(当時)が相手だった。ひぐまのほか、宮岸部長夫妻の2人(+熊一頭)が「何点取られるか…」と、凹られるのを覚悟して、「応援では負けないぞ」とガンガン応援した。案の定ジェフが先に2点を取ったのだが、札幌は後半途中に投入された一年生のあんにゃろが見事に流れを変えた。高校生離れしたスピード溢れる動きとキレッキレのボールタッチでジェフの守備陣を翻弄し、終了間際にまんまと同点に追いついた。試合はそのまま引き分けとなり、出場3回目の新興札幌が育成には定評のあったジェフの勝ち点2を削り取った。かつてのクラセンU−18はグループ1位は決勝トーナメントに文句なく進めたのだが、2位となった場合は勝ち点や得失点差で他のグループと比較し、全グループの上位2つまでしかベスト8に進めないフォーマットになっていた。結局ジェフはこの札幌戦の引き分けが響き、決勝トーナメントへの切符を逸している。このチームには佐藤寿人(現・広島)、勇人(現・千葉)のツインズをはじめ、工藤浩平(現・松本山雅)、中後雅喜(現・東京V)らがおり、この試合はベンチメンバーだったが高木貴弘(現・北海道コンサドーレ旭川U−15コーチ)もいた。優勝候補だったのもうなずける。

 この試合、大会の主催者や協賛スポンサーだったadidas Japanにとってはエポックな試合となったようである。市原−札幌戦はこちらはもちろん、相手のジェフ側ものちに「TOTO評論家」として名を馳せるW田さんがタイコ持参で応援しており、つまり大会史上初めて「双方による応援合戦」が繰り広げられた試合となったのだ。ハーフタイムにはわざわざadidas Japanの人が2名、センターハウスから降りてきたのだ。「うるさいから応援やめてください」と言われるのかと思ったら「いや〜〜、すばらしい応援ですね!」と絶賛され、かえって恐縮した記憶がある。お2人のうち1人は札幌のご担当をされていたらしい(名前は本当に失念しました。すみません)。ひぐまさんのユース応援はこの試合から始まったと言ってもいい。

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<J村と木戸駅の途中にある自販機。不心得者がいるのだろう。防犯カメラ付だ>

 3番は各グループの第一シードのチームが固定して使用している。3番と同じグループに入ったチームが第一シード以外の対戦で使用するのが隣りの4番である。
 4番での思い出は2001年。この年から札幌U−18監督に就任した財前恵一(現・ロアッソ熊本コーチ)の勝負強さが遺憾なく発揮され、最終的に準優勝した年の初戦だった。初出場の富山県のGENIOS.FCとの試合。なんとわざわざバスを借り切って常磐道を飛ばしてやってきた(本当)大量のサポーターの前で11−1と圧勝する。3年生になったあんにゃろは特別な存在になっていた。オフサイドを取られるたびに副審にガンを飛ばし(本当)、それでも前半だけでスカッとハットトリックを記録すると後半はベンチに退き、自分たちの試合を見ないでウラの3番の京都サンガの試合をのんびりと見ていた。札幌サポは全員腹を抱えて大爆笑。中には鼻血を流しながら転げまわり熱狂していた者もいる(本当)。
 ちなみにそのバスに乗ってやってきた中にあきっくさんがいる。彼女はこの試合で右サイドを蹂躙していたS木T樹(現・札幌強化部)や石郷裕二(→札幌大学)らに魅了されたらしい(推定)。ビョーキ(確定)。
 4番での思い出の試合をもうひとつ。2004年のU−15決勝トーナメント1回戦。ヴィッセル神戸との一戦は激戦となり、1−2とリードされた後半アディショナルタイム。ハーフウェイライン付近で相手ボールをカットしたセンターバック熊澤覚(現・京都に在住)がそのままドリブルで突っかける。「とつげきぃぃーーーー!」というひぐまの雄たけびを背に重戦車のごとく相手選手を一人交わし二人交わし、ついに相手ゴール前左サイドへ進撃。相手の誰もが「最後はクロス」と読んでいたようだが、熊澤はシュートを放ちゴールネットを揺らす。土壇場の土壇場で同点に追いついた札幌が延長後半に能登剛(→エスポラーダ北海道)がやはり長い距離をドリブルで抜き去りVゴールを決めた。熊澤には後に会った際に「あのゴール、憶えています。ひぐまさん、何か叫んでましたよね(笑)」と語っていた。北海道コンサドーレ札幌20年の全カテゴリーを通じても歴史に残る、語り継ぎたい素晴らしい試合だった。

 5番ピッチは出場チームが少なかったクラセンU−18では通常使用されていない。U−15やU−12では使われているが、U−12では北海道から単独編成のチームとしては初出場となった2006年全日本少年サッカー大会が記憶に残る。最初に見た試合で額縁に入れて飾っておきたいくらいの完璧な素晴らしいゲームを見せてくれたのである。
 試合前は「試合になるかどうか」と弱気だった浅沼達也監督(現在も札幌U−12監督)だが、初戦・宮城県代表のA.Cジュニオールを相手に言葉では表せない完璧ともいえる試合(特に前半)を見せた。目を見張るチーム一体となった動きでジュニオールをまさに圧倒し、さっさと稲田浩平(→札幌大)のハットトリックで試合を決めてしまった。大会を視察に訪れていた川淵三郎キャプテン(当時)などはすべてのピッチをまんべんなく見る予定を曲げて、前半まるまる札幌の試合に見とれていた。
 この試合で札幌U−12は稲田の3点と中原彰吾(現・札幌)の1点を記録したのだが、2列目から自在に前線へパスを供給していた10番が目を引いた。試合後「お疲れ様。よかったね」と声を掛けると恥ずかしげに会釈してくれた寡黙な選手。それが深井一希(現・札幌)だった。堀米悠斗も神田夢実も前寛之(いずれも現・札幌)もいた。札幌の黄金世代が全国デビューを飾った記念すべき一戦だったのである。
 5番ピッチで戦った記録ではないのだが2010年の大会に出場した菅大輝(現・札幌U−18=トップチーム帯同)のこともちょっとだけ書いておく。
 初戦のニカホFC(秋田県)戦でチームの完成度の高さに驚くとともに、とにかく彼の動きに目を奪われた。ボールを持つと早いタイミングで次のプレーに移る。計5試合見たのだが、距離のあるシュートを持ち味とし、生粋の左利きではあるが頭や右足でのゴールも決め、それ以上に味方をよく動かしていた。「これは…札幌の宝物になる」と、ひぐまはもちろん彼を見た他の誰もがそう確信した。その後の経過は皆さんご承知の通り。なので多くを語るのはやめておこう。
 なお全日本少年サッカー大会は翌年から8人制での大会に移行し、開催地も裾野市(時の栖サッカー場)に移った。昨年からは開催時期も冬となって鹿児島市で催されている。

 長くなった。ちょっとはしょろう(笑)。

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 いろいろな呼ばれ方もされているようだが、通称オレ的には「谷底」と呼んでいる1番ピッチ。地形を利用したためか他のピッチと比べ低い位置にある。そのため多くの大会時にはピッチサイドからの応援は叶わず、ピッチを見下ろす片側のゴール裏に両チームのサポーター(ご家族)が集まって応援することになる。
 1番での思い出は数多い。横野純貴(現・タイ2部コンケーンFC)のハットトリック(2007年クラセンU−18)は彼のゴールへの執念と鍛え上げてきたボディバランスの賜物として鮮明に記憶に残っている。が、後年彼は「一点目はオウンゴールでしたね(苦笑)」と正直に白状している(笑)。右(相手の左)サイドでエンドいっぱいのボールに先に触れたのは相手の選手で、際どいボールがゴールラインを割った。それは我々の目の前だったのでよく見えた。「でもまぁとりあえず喜んでおけってことで」派手に喜びを露わにしていた。その後の正真正銘のゴールが見事だった。松本怜大(現・町田)からのクロスをゴール前で受けると優れた身のこなしで相手をかわし、左足でゲットした。横野は後半にもヘッドのゴールを突き刺して難敵・東京を降した。
 U−15は2010年。鹿島を相手に華麗かつセクシーなパスサッカーで逆転勝利を挙げた。この試合がひぐまがJヴィレッジで見た最後の試合となった。季節はずれの肌寒さだったことを憶えている。

 全カテゴリーを合わせると試合数そのものでは最も多かったのではないかと思う2番ピッチ。こちらも応援場所には苦労した。だいたいは東側(ベンチとは逆方向)で応援したものだが、大会によってはベンチのすぐ脇で声援を送ることも可能だった。
 2009年クラセンU−18。扇原貴宏(C大阪→名古屋)や永井龍(現・長崎)らを擁し、この年関西最強と謳われていたセレッソ大阪を工藤光輝(現・グルージャ盛岡)のループシュートと近藤勝成(故人)の鮮やかなカウンターで沈めた。
 2000年春の「ナイキ・プレミアカップ」では当時の大会規定が「U−14」だったため、中学生になったばかりの選手たちもJヴィレッジにやってきた。小さな1年生の中に背番号14を付けた選手がいた。西大伍(現・鹿島)である。後に本人は「入ったばかりですぐ遠征でしたね。いやぁ…場所どこにあるかもわからなかったです」と答えている。彼は2試合目(注・当時はグループラウンドは3チームで争った)の二本松一中戦に出場した。それが第2ピッチだった。相手に3年生ではあったが早生まれ(2月生まれ)の萬代宏樹(現・水戸)がいたのだが「えっ?そうでしたか?憶えていません」らしい。この大会は得失点差わずか1で準決勝への道を閉ざされている。

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<J村から木戸駅へ続く道。アスファルトが割れ、草が顔を覗かせていた>

 離れ島的な7番ピッチでは2009年のU−15の千里丘FC戦を挙げよう。前半、ナイスセーブ!と思われたGK福永浩哉(→道教大岩見沢)が一発赤紙を食い、途中出場してきた阿波加俊太(現・札幌)がPKは止めたもののコーナーキックからのプレーであっさりと失点し苦境に立った。一人少ない状況の中、ゲームを支配した「黄金世代」の札幌が残り10分を切ってから千里丘の守備陣を食い破り、下田康太(→国士舘大)と中原彰吾のゴールでひっくり返した。得点者には記録されていないが深井一希が一人ボランチで中盤に君臨し、やはり只者ではないと思い知らされたゲームだった。彼はU−12ではゲームメーカーとして、U−15ではボランチとして出場している。
 この大会では札幌U−15は全国の育成担当者から極めて高い評価を受け「優勝候補」と言われていた。グループ3戦目で広島U−15を相手シュート1本に抑えて完勝するなど順調にコマを進めたのだが、準々決勝でACNジュビロ沼津に足元をすくわれてしまう。大会が帯広開催となった2011年夏、偶然にも大会を視察に帯広入りしていたACNのスタッフの方と空港へ向かうバスで一緒になったのだが「あのときは運がよかっただけです。攻められっぱなしで本当に札幌さんは強かったです。こっちは帰る支度をしてJヴィレッジまで行っていたんですから。勝ったら勝ったで宿の手配とかいろいろ大変でした(笑)」とおっしゃっていた。得点を決めたのが後に清水ユースに進み、プロ入り後に藤枝にレンタル移籍した加賀美翔だった。こちらも「ここまできたら札幌」と信じていたので、一時福島から穴へ戻ってきていた。準決勝と決勝には行くつもりでいたのだが、「スーパーひたち」のチケットがパーになった記憶がある。

 8番では前述の菅の代やその前の代でも少年大会で何試合か行っている。9番以降はU−12で試合はあったかもしれないのだが記憶には残っていない。

 名前が上がらなかった中からも多数の記憶に残る選手が思い出に残るプレーをした。昨年の「ユース・レジェンドマッチ」で得点を挙げた伝庄優(→長崎)、彼にラストパスを通した遠国信也(→佐川急便北海道)、驚愕の左足・古田寛幸(現・金沢)、U−15のみだったがハーフナー・マイク(現・デン・ハーグ)、西と同期で鋭いクロスが持ち味だった藤田征也(現・湘南)などなど…。


 このへんで次回からまた元に戻ります。

posted by higuma at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | ひぐまの日常系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする